幸福で豊かな暮らしをしていた家族が、ある日突然、全てを奪われる。サントス強制退去事件の当事者たちの多くは、その事を誰にも語らなかった。
あまりに強いショックを受けたせいで、語れなかったのかもしれない。むしろ、忘れてしまおうとすらしていた。
「悪いことでも、歴史を残すことが必要だと思います」。今年5月25日、沖縄県人会本部に訪れた比嘉アナマリアさん(71、二世)は、記者を目の前にそう語った。
彼女は事件の当事者ではない。だが、母親と叔母から当時のことを聞いて鮮明に覚えていた。敵性国人という理由だけで、家財を二束三文で処分して24時間以内に強制立ち退きさせられるという凄まじい経験は、本人でなくても十分に衝撃だった。
アナマリアさんの祖父は、サントスで商業を営んだ成功者だった。その祖父のトラックの運転手を務めていたのが、アナマリアさんの父親。その後、アナマリアさんの母トミさんと結婚し、大きな苦労もせず、幸福に暮らしていた。
その日、小学生だった叔母は授業中に帰らされ、家に着いて退去命令が出たことを知った。そこに、突然兵隊が入り込み、家の中を調べ始めたという。祖母は恐怖で怯えた。
その時、祖母はあることを思い出した。アナマリアさんの祖父は、兵隊で満州に行ったことがあり、更に沖縄で消防隊として働いていた。その時の軍服が家にあったのだ。
見つかれば、日本の兵隊と思われて大変なことになるかもしれない。祖母は咄嗟に、兵隊たちが他の所を見ているうちに焚き火に放り込んだ。
さらにアナマリアさんが叔母から聞いたところ、事件より前に、当時の身分証明書を新聞紙の中に入れて庭に埋めていたという。叔母も理由は分からなかったそうだが、アナマリアさんは「おそらく以前から、日本移民が適性国民だと認識されていたからではないか」と推測している。
一方、結婚して実家を出ていたアナマリアさんの両親は、祖父母と連絡が取れないまま、退去命令通り駅まで向かった。この時アナマリアさんの母トミさんは、妊娠7カ月目だった。
「偶然にも駅で、知り合いの宮城太郎さんに会うことができたそうなんです」。顔見知りにあった安心感からか、トミさんは宮城さんに泣きながら近づいた。
「2人は日本語で話してしまって、そこに兵隊が近づいてきたそうです。『何が起きている、何故話していたのか』と聞かれて、宮城さんは咄嗟に『これは私の娘です』と言うと、『それなら良い』と事なきを得ました」。
しかし、トミさんは無理な立ち退きをすることによって、腹の中の赤子を失うかもしれない不安が収まらなかった。一度目の赤子を死産していたのだという。「母は、大勢の人たちが次々に押し寄せる中、駅構内にあった机の下に隠れて恐怖で震えていたそうです」。
その後、アナマリアさんの祖父母と両親は離れ離れのまま移民収容所に運ばれた。収容所で人々は、相撲をとったり三線を弾くなど、娯楽で互いを慰め励まし合った。
成功した商人の家族だったのに、家財の全てを失った。サンパウロでは2家族で1部屋を借りて無理やり住むしかなかった。アナマリアさんは、母親と叔母が「とても幸福な暮らしをしていたのに、何もかも失い絶望した」と話していたという。
後年、アナマリアさんは、この話を自分で書き記した。それを日本語に翻訳し、沖縄に住む親戚に読んでもらった。戦争で苦労した親戚は「ブラジルで幸福な暮らしをしていただろうと思っていたが、まさかこんな事があったとは」と泣いていたという。
アナマリアさんは、「戦争だからこんな事が起こったのは理解している。でも、犠牲になったのは何も罪のない人たちです」と静かに語る。「どんな事情があれ、差別は間違っている。それを知るためにも、子孫にもこの事件は伝えるべき」と強調した(つづく、有馬亜季子記者)。
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サントス強制退去事件について母親から話を聞いた比嘉アナマリアさんによれば、両親がサントスの駅で出会った宮城太郎さんは、娘と離れ離れに暮らさざるを得なくなったという。「資産を周りのブラジル人に奪われないために、ブラジル国籍の娘がサントスの家を守るために残った」のだ。その後しばらくは連絡も取れず、未婚の娘を置いていった父親は、いつもラジオのニュース情報を聞いていたという。数年後、ようやくサントスの家に戻れたというが、別れの瞬間の胸が張り裂けそうな気持ちはいかばかりか。