サントス強制退去事件の当事者で存命の人は、ほとんどが当時子供だった。今回取材した中で、その時唯一大人だったのが、大正10年(1921年)生まれで、現在もサントスに住む当山正雄さん(98、玉城村(現南城市))だ。
矍鑠とした姿で記憶力も良い。だが長いブラジル生活の中で、事件に話が及ぶと口が重くなる。落ち着かない様子で目線を外しながら、「この話はしたことがない」とポツリとこぼした。
当山さんは10歳で渡伯し、1932年1月14日にサントス港に到着した。幼少時に移住し、戦争中は日本語が禁止だった関係で、今でもポルトガル語が会話の中心だ。
事件当時は、それから12年経った22歳。自分以外の家族はサンパウロ州郊外で仕事をしていたため、叔父と一緒に住み、バス会社の修理工として生計を立てていた。
「家に叔父と一緒に居た時に、警察官のような人が来て立ち退きを通達されたと思う。はっきりとは覚えていない」。遠い記憶をたどり、重く閉ざした箱をこじ開けるように、時折目を瞑る。
通達を受けた当山さんは、とても混乱していた。覚えているのは、「荷造りする暇もなく、着の身着のままで家を出た。駅へは一人で向かった」ということだ。家財も金も何もかも家に置いて出た。
駅に到着すると、日本人や兵隊が大勢いた。しかし、日本人で集まるのが禁じられていたので、誰かと話す余裕もなかった。ただ、「マラぺという場所でウチナーンチュ(沖縄県人)が養豚業を営んでいたが、全て置いて逃げた」という事は覚えているという。
この事件に強いショックを受けたが、それまで日常的な差別がなかったわけではない。「日本人で市場を作ろうとしたが、許可されず街灯の下の路上で売っていた」と語る。
また、ブラジル人からは「ジャポン、ジャポン(日本)」とからかわれ、さらに「キンタコロナ」とも呼ばれていた。これは、連載4回目で比嘉ゆうせいさんが語った、第五列=スパイという意味だ。
「スパイが通信している可能性もある」と、家にラジオは置いていけなかったという。なるべく存在を消すために、電灯の周りには空き缶を被せて、明かりが漏れないように過ごさせられた。
これらの記憶は、宮城あきらさんによる『群星(むりぶし)』の取材の時に初めて話した。あまりに辛い出来事だったためか、記憶に蓋をし続けていた。幸せだった頃の話を挟みながら、「苦労話はしたくないんだ」と繰り返す。
戦後の1947年、サントスに戻ると、自分たちの家だった場所には、ブラジル人が住み着き、財産全てを失った。養豚もしていたが、豚一匹もいなかった。夜空の月を眺めると、つうっと悔し涙が流れた。
「収容所では床いっぱいに日本人が寝ていたんだ。あれはとても悲しい時期だった」。当山さんはそう呟くと、口を噤んだ(つづく、有馬亜季子記者)。