樽が町に出たのは松吉も農地からはなれ、近郊でなにか別の仕事を始めようと考えていたからだ。行き先はサンカルロスではなく、首都サンパウロに近いサントアンドレーという町だった。
樽はもうしばらくサンカルロスに残り、農業以外の仕事をしようと決めた。ノーベ・デ・ジュリョ街に「バール・アイスクリーム」という名の店を開けた。10年ほどたって、甥正輝がアララクァーラで経験したことをくりかえしたのだ。いろいろな味のアイスクリームを作ることを甥から習った。
移った家は松吉の農園の家よりずっと住み後心地がよかった。住居は店の後ろにあった。しかし、店と家の間に小川があり、木の橋がかかっていた。大雨の日は大量の水が流れ、洪水の危険はなかったが、ごう音がみんなを驚かせた。
子どもたちはみな成長していて、長男ヨシアキは計理専門学校を卒業し、計理士の職に着いていた。丸顔のためバイーアと呼ばれていたヨシオは学業をつづけず父の店を手伝っていた。ゼーの名で知られる三男のタダオは長兄のように計理士を目指していた。次男ヨシオと名前が似ていたので、ブラジル人からアジェノールと呼ばれていた四男ヨシノリも同じ道を進むつもりだった。子どものときは兄弟や従兄弟たちに「ガルセント」と呼ばれていた。末っ子のルイースは絵を描くのがうまく、将来は絵描きの道を選ぶだろうといわれていた。ハッチャンと呼ばれる長女は、どの日本人家庭と同じように結婚に備えて家事を手伝っていた。
これらの家族を妻ウシに託して1948年12月10日、樽は死んだ。沖縄焼酎「泡盛」に似たピンガを初めて口にして以来、食前に一杯やる習慣をつづけ、たまに食後にもう一杯飲んだ。酒を飲む上、タバコを吸うという悪癖が重なった。一日に3、4箱は吸った。それが原因で歯茎の癌になり、55歳の若さでこの世を去ったのだ。
ブラジルに永住する決心をした正輝はできるだけいい条件で生活していこうと思った。サンパウロ大通りとキンゼ・デ・ノべンブロの間のオイト街に住む子どものない一人暮らしのアンジェリーナ未亡人を見初めたのだ。小太りで、青い目の金髪の女性で優しい声をしていた。野菜を家に届けに行ったのがことの始まりだ。
土曜日にカマラ広場の市場から、あるいは火曜日にサンジェラルド教会広場からアンジェリーナ夫人に野菜を届けに行く時間が、はじめはちょっとの間だったのに、次第に長くなっていった。だいたい週2回も配達を受けるのはおかしな話なのに、朝市が立たない日まで届けに行っていたのだ。そんな日には、正輝は配達の品物をラバのクリオーロが引く車に乗せ、一人で家を出て町に向かい、長い時間が過ぎてから帰って来た。そのことで房子は夫を疑ったことはない。日本人の妻はそんなことで夫を疑うなどしないのがふつうだ。
彼女たちは夫を敬い、常に従順だった。房子は野菜をアンジェリーナ夫人の家まで配達したあと、夫はバールに寄って、仲間と会談したり、昔の討論仲間に会いに行ったりしているのだろうと思った。何も心配する理由はないのだ。あるいは浮気をしているのではないかと考えたときもあるが、そんなときにも平然としていた。日本人の夫がそのようなことをするのはごく普通のことでおおめにみていた。 男性の不貞を罰するようなモラルなど、移民社会は持ち合わせていなかったのだ。