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ブラジル独立200年までに国歌を練習しよう!

ブラジル国旗130周年を記念して下本元州議が刊行した『Bandeira e Hinos Brasileiros』の表紙。現在の国旗。

ブラジル国歌の歌詞とその意訳

ブラジル国歌の歌詞とその意訳

 仕事がら、いろいろな式典に参加するので、日本とブラジルの両国歌を歌う機会によく接する。そしていつも残念に思う。君が代はスラスラと歌えるのだが、ブラジルに住み始めて25年になるのに、ブラジル国歌の方は恥ずかしいことに一番すらまともに歌えないのだ。

 「お世話になっている国の国歌ぐらい歌えなければ」と常々思うのだが、いつも思っておしまい。この四半世紀、同じことを繰り返している。いたらないポルトガル語能力と学習意欲のなさを恥じるのみだ。

 一世ばかりの式典だと君が代は大音量で歌われるが、ブラジル国歌の方は皆が口をパクパクさせるばかりで音量は「蚊の鳴き声」という場合まであり、出席してくれたブラジル人政府高官などの来賓に、申し訳ない気持ちになることもある。

 そこで思い出すのは、08年から12年まで在聖総領事として着任した大部一秋(おおべかずあき)氏の夫人・栄子さんだ。とても存在感のあった珍しい総領事夫人で、日系社会でも「ドナ・グロリア」と愛称されていた。というのも、彼女は公務で式典に参加する際、いつもブラジル国歌をきっちりと歌っていたからだ。

 その場面に立ち会わせた多くの日本移民は、大きな口を開けて朗々とブラジル国歌を歌う彼女を、せん望のまなざしで見ていた。むろん、コラム子もその一人だ。

 「永年住んでいても国歌すら歌えない」という感覚を詠った短歌や俳句作品に出会うことも多い。この感覚は多くの日本移民に共通しているのではないか。

 そこで2020年を迎えるにあたり、密かにコラム子は「今年中にブラジル国歌を歌えるようにしよう」と決意した。

 歌うためには、歌詞の意味を理解しなければならない。そこで、ムリを承知で翻訳してみた。「だいたいこんな意味」という程度なので、正確な意味は周りの二世の人に聞いて欲しい。

 

下本元州議の『Bandeira e Hinos Brasileiros

  

 国歌を覚えるにあたり、参考にしたのは、下本八郎元州議が昨年末に刊行したは冊子『Bandeira e Hinos Brasileiros』だ。現在、新版を準備中だと言う。

 これは、現在のブラジル国旗デザインが昨年11月19日に130周年を迎えたことを記念して発行され、無料配布中だ。国歌がカタカナ読みで書かされており、とっつきやすい。欲しい人は下本会計士事務所(電話11・2856・7290、hatiro@hatiro.com.br)まで連絡を。

 その冊子には国旗の歴史が詳しく書かれている。「現在の国旗は何番目のデザインか?」と聞かれて、答えられる人がいたらスゴイ。

米国旗にそっくりで、たった4日間しか使われなかった幻の国旗(Bandeira Provincia da Republica)

 例の冊子を見て初めて知ったが、実は10番目だ。最初は植民地時代の「Bandeira Real」というポルトガル王国旗。この時代は宗主国の旗が変わるたびに変更された。王室がナポレオンに追われてブラジルに逃避しても、そのままその宗主国の国旗が使われた。

 独立してからは8番目の「Bandeira do Brasil Imperio」が使われるようになった。「ブラジル帝国」時代の旗で、1822~89年までの67年間使われた。

 興味深いことにわずか4日間しか使われていない国旗もある。9番目の「Bandeira Provincia da Republica」だ。1889年11月15日から19日まで。色は黄緑旗を踏襲しているが、デザインはアメリカ合衆国そっくりというシロモノだ。

 最後が現在の国旗で、1889年11月19日から現在まで使われている。だから昨年11月で130周年になった。

 

 

生粋国民にすら難解な国歌と、下本州議の貢献

 

 言い訳になってしまうが、ブラジル国歌の歌詞はむずかしく、また早口だ。そして歌えないことは外国人移民として、それほど「恥ずかしくない」という部分もある。というのも生粋ブラジル人にとってすら難しいからだ。

 たとえば、2010年9月2日付オ・テンポ紙(ミナス州ベロオリゾンテ市)には《「半分以上のブラジル人が国歌を歌えない」と調査で判明》との記事が掲載された。

 読んでみると、《国歌を歌うことが難しいことは、サッカー選手が証明している。試合の直前、一列になって国歌を斉唱する際、あるものは黙ったまま、あるものはモゴモゴと口を動かしているが、明らかに本来の歌詞とは違っていたりする》とある。サッカーW杯ブラジル大会(2014年)から会場全体で国歌を大合唱するようになってから状況は変わった。

 だが、それ以前はこの記事の通り、かなり酷かった。この記事では「Projeto Brasilidade(ブラジル人性プロジェクト)」という調査の結果が発表されている。驚くのは約6割、厳密には58・4%の国民が《国歌を歌うのに困難を感じる》と答えている点だ。「歌詞全部が歌える」と答えているのはわずか2割、21・7%のみ。「ほぼ全部」と答えているのが19・9%。つまり、合わせて約4割しか歌えない。

 「一行も歌えない」は11・1%もいる。我々外国人移民の多くはここに入るのだろう。

 興味深いことに、この調査によれば、国歌を歌えるかどうかに学歴が関係している。「もっとも歌える割合が高かったのは大卒で45%」、逆に「一行も知らないと答えた割合が最も高かったのは文盲者で、小中学校中退者」とのこと。

 年齢別でみると、実は若者の方が国歌を歌えることが分かる。18~24歳の年齢層は29・7%が「歌える」と答えており、「まったく歌えない」が一番少なかった(3・6%)のも25~29歳の年齢層だ。

 サンパウロ州において、「若者が国歌を歌える」ことに貢献している法律がある。Projeto de Lei no 375 de 1988で、州内の全ての初等教育施設で毎週、国旗を掲揚しながら国歌を歌うことを義務付けた聖州条令だ。起草者は下本八郎サンパウロ州議(当時)だ。今から32年前であり、ちょうどこの層から国歌が歌えるようになっていることが、先の調査で分かる。

 逆に一番「まったく歌えない」が多かったのは60~64歳で、20・3%だった。

 ブラジルでは、若者の方が国歌に親しんでいるのは、我らが下本元州議の貢献が大きい。

 

わずか3年後に迫ったブラジル独立200年

 

 「ブラジル国歌はなぜあんなに歌うのが難しいのか」の原因の一つは、作曲の古さにもある。実際に何年に作曲をされたか知っている人がいたら、これまたスゴイ。

 実は1831年だ。日本はまだ江戸時代。ブラジル帝国のペドロ一世が1831年に退位した時に作曲され、同年4月7日にリオ市のサンペドロ劇場で初演奏された。「ブラジル独立を宣言し、ペドロ二世への退位を讃える歌」だった。当然のこととして、歌詞は現在とは大分違うものだった。

 ただし、出だしのイピランガの川岸で独立を宣言する部分は雰囲気を残している。だが興味深いことに、当時は「帝国への忠誠を誓う」「ポルトガル嫌悪」「もう財産(植民地)ではない」というニュアンスを持った歌詞があった。

 だが、王族を追い出した共和制宣言(1889年)を経て、しばらくは「歌詞ナシ」(楽器演奏のみ)の時代が続いた。

1922年に出された国歌の公式楽譜のピアノ部分(Governo do Brasil [Public domain])

 その後、独立100周年を目指して新しい歌詞選定が始まった。1909年に歌詞コンクールが行われ、現在のドゥッケ・エストラダ作品が選ばれた。だが、それが公式化されるには、独立100周年(1922年)を待たなければならなかった。100周年にはコルコバードのキリスト像が建てられるなど、当時としてはかなりの大事業が遂行された。

 日本政府は、この独立100周年式典に初めて海軍練習艦隊3隻(「浅間」「磐手」「出雲」)を派遣した。当時の駐伯公使堀口九萬一を特派大使に任命した。

 練習艦隊3隻は9月3日にリオデジャネイロ港に入港。独立記念日の7日には「独立記念万国博覧会」の開会式が挙行された。この博覧会には日本も出品した。練習艦隊は観艦式及び晩餐会、舞踏会などの公式行事を連日開催した。

 つまり、3年後の2022年はブラジル独立200周年を迎えると共に、現在の国歌歌詞が公式になってから100周年を迎える。「もしも今年中に憶えるのがムリだった場合、どんなに遅くとも、独立200周年までには国歌を歌えるようになろう」と再び誓った。(深)