震災から9年が経った今も、福島第一原子力発電所は閉鎖されたままだ。原発の廃炉措置、そして福島県の環境回復と住民の早期帰還に向けた取組は続いている。
廃炉推進のためには、放射線量率が高い場所で作業を行うことが多いため、遠隔技術の開発は不可欠だ。災害時対応として応用の利く技術でもある。
そこで国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(JAEA)は、ロボット等の遠隔操作機器の開発実証施設として、「楢葉(ならは)遠隔技術開発センター」を15年10月に設立。16年4月から運用を開始している。
センターは研究管理棟と試験棟で構成されており、研究管理棟は、廃炉作業の計画検討や作業者訓練等に利用する最新のバーチャルリアリティ(VR、仮想現実)システムや、ロボットシュミレーターを有している。
一行は加島洋一副センター長の案内のもと、まずはVRシステムを体験する部屋に向かった。3D(立体画像)メガネを装着し、巨大なスクリーンの前に立つと、視界いっぱいに福島第一原発の1階内部の風景が広がる。まるで本当にそこにいるかのような感じだ。
ガイドがコントロールを持ち、一行を誘導して画面が動きを見せると、本当に歩いて何かにぶつかったような錯覚に陥る。あまりにリアルな体験なため、3D眼鏡をはずすとき、研修生からはため息が漏れていた。
続いて外に出て向かったのは、研究管理棟の隣りにある試験棟。ここでは、原子炉格納容器の一部を実物大で再現している、実規模モックアップ(外見を実物そっくりに似せて作られた模型)など、各種試験装置が備わっている。
例えば福島第一原発施設内の階段を模擬することができるモックアップ階段や、ロボット試験用で直径4・5m、水深5mの大型水槽等の最新技術だ。これらの設備は、廃炉作業に関係がない大学や研究機関等にも日々利用されているという。
研修生も最新の技術開発に感動し、「ロボットは放射能の影響を受けないのか」「毎日データを取らなければならないのか」など、活発な質問が飛び出していた。
廃炉措置には30年~40年の歳月が必要だと言われ、廃炉にはまだ時間がかかるが、加島(かしま)副センター長は「着実に廃炉への道を歩んでいますよ」と強調した。
レヴィさんは、施設の技術について加島副センター長に質問を繰り返し、「とても興味深い施設だった」と感心したように語った。
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いわき市にある東日本国際大学で学生と交流した一行は、同大学に通っている県費留学生のチョイ・サンペイ・ステファニーさん(25、四世)と合流し、ホテル華の湯で宿泊した。翌日の朝は雪が降っており、アガタさんは「雪を見るのは初めて!」と嬉しそうだ。
28日朝は、福島県が生んだ偉人、野口英世の記念館を訪問した。2004年から千円紙幣の肖像になっていることでも知られる。
野口は世界的にも有名な細菌学者で、黄熱病や梅毒の研究で知られている。ノーベル賞候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、51歳で命を落とした。
ブラジルには、1923年に黄熱病研究のためにバイーア州都サルバドールに約3月間滞在し、オズワルドクルス研究所(現ゴンザロモニッツ研究所)で研究を行った。使用した研究所には、今も「LABORATORIO PROF NOGICHI」のレリーフがあるという。
彼がブラジル滞在中に訪れたリオデジャネイロには「RUA DR NOGUCHI(野口通り)」という通りがある他、サンパウロ州カンピーナス市の野口英世記念公園には、銅像が建立されている。
記念館には、野口の生家がそのまま残っている。案内してくれた学芸課の森田鉄平主任は、囲炉裏を指さすと「野口は1歳の頃にここに落ちて左手に大火傷を負いました」と語る。
裕福ではなかった野口は、すぐに左手を治療できず、子供の頃は右手しか使えなかった。先生や仲間の援助で15歳の時に手術を受け、医学の素晴らしさに感動した。この事は彼の人生に多大な影響を及ぼしたという。
医学の道を志した野口は、医術開業試験を受験するために19歳で上京。その時に「志を得ざれば再び此地を踏まず(医者になれなければ生まれ故郷には帰ってこない)」という言葉を生家の床柱に小刀で刻んでおり、記念館ではそれが今も大切に保存されている。(つづく、有馬亜季子記者)