ホーム | 文芸 | 連載小説 | 臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳 | 臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(222)

臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(222)

 サンパウロから売り物を運んでくるためと、朝市が立つ場所に屋台を運んでいくためにトラックが必要だ。月曜日はヴィラ・アルピーナスのIAPI、火曜日は家の近くで、ドナ・ゲルトゥルデス街の角から始まるアビーリオ・ソアレス街、水曜日はサンタ・テレジーニァ、木曜日はジャルジン区のフィゲイラス街、金曜日は中心地のジェネラル・グリセーリオ街、土曜日はパルケ・ダス・ナッソンエスのブラジル大通り。
 まったく偶然だが、松島一家も同じ日の同じ場所に朝市の屋台を立てていた。松島は日本人の名前だが、沖縄出身だった。彼はヴィラ・ピーレスのイトロト街に屋台を置いていた。家族は1949年型のシボレーの大型トラックもっていて、正輝の屋台とサンパウロで仕入れた品を載せるだけのスペースがあった。早朝、屋台と品物はそれぞれの場所にもってきてくれることになった。
 屋台に品を並べるため、正輝は夜明けにサンパウロに向った。中央卸市場の野菜の卸し売りは明け方に行われた。傷みの早い野菜類を仕入れるには最適の時間で、しばらくすれば、消費者の前に並べられるのだ。
 サントアンドレから出るサンパウロ行き最終便は、夜中の12時ごろ町の中心地を通った。1時間後には中央市場の横のドン・ペドロ広場に着く。帰りのバスは4時30分にドン・ペドロ広場を出る。従って3時間半ほどの余裕がある。正輝が仕入れた箱に赤か青のチョークでM・Hとイニシアルを入れ、運搬人に松島氏のトラックまで運んでもらう。時間は十分あった。そのあと、帰途につく。ことがうまく運べば、5時40分には家に着き、朝市の屋台を立てるために家を出るまで、仮眠できるのだ。

 朝市の仕事が順調にいきだしてから何ヵ月か過ぎて、もう少し居心地のよい住居を探そうと思った。サン・ジョゼ洗濯店の家主だったナニール氏は家の後ろの庭に何軒か借家をもっていて、その一軒が貸しにだされていることをしった。たいした家ではないが、いま住んでいる小屋よりましだ。1953年の年末前ににセナドール・フラッケル街891番地に家族は引っ越した。だれかに住所を教えるときは番地の後に「奥」とつけ加えた。
 家はセナドール・フラッケル街道からみて、右側の奥にあった。マニール氏が朝市に果物をのせていく馬車が入る通路を通ると家に着く。その通路の左側にマニール一家が住むりっぱな屋敷がある。その家の壁が終るところに馬車をしまうガレージと馬小屋があった。その後ろは20メートルばかりの広い空き地になっている。正輝が借りることになったのはその後ろだ。
 空き地の右には10メートルほどの塀があり、向こう側はベニア板の工場があった。家の5メートルほど手前に、壁に沿って戸のない小屋があり、マイール氏はその小屋を正輝に使わせてくれた。小屋の後ろに家と同じ巾の3メートルほどの庭があり、ゼラニウム、タンポポ、ホウセンカが乱雑に生えていた。気ままに植えられたのだろう。だが、庭があることで、房子は喜んだ。暇なとき、手入れができる。それに、家族のためにこの地では珍しい生姜も植えられるのではないか。
 なによりも家に住めるのだ。庭は斜面になっていた。家に着くには、狭いコンクリートの坂を下りる。庭と家を挟んで、巾50センチ深さ50センチほどの溝が掘ってある。家の入り口近くにコンクリートの小さな橋が渡されていた。