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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(228)

 家にはネナと下の三人の子どもしかいなかった。銅像広場のオリヴェイラ先生の中学予備校に通っているツーコ、小学校3年生のヨシコと1年生のジュンジだ。四人は母といっしょに恐ろしいシーンを眺めた。息子を叩きつけながら正輝はうなり声を上げていた。家にマンガを置くことは絶対に許さないと正輝はいつもいっていたのにい、ミーチはそれに従わなかった。
 「以後、絶対このようなことをするな。どうなるか覚悟しろ」という言葉をあびせかけた。その場で一番異常だったのは父親の度が過ぎた暴力ではない。ミーイはまるっきり反応をしめさなかったことだ。
 ぶたれても声も出さず、泣きもせず、抵抗もしなかった。罰をなすがままに受け入れていた。兄弟のなかで一番自負心の強い息子だが、いままで、このような目にあわされたことはない。口も開かず、抵抗もしない息子の態度が正輝をより苛立たせた。
 房子が仲裁に入り、「もうやめて、ミーチはちゃんと分ったから」といって正輝を家に押し込んだ。ミーチもすぐ家に入り、何も言わずに部屋に駆けこんだ。今晩は夕食をせずにベッドにつこうと考えたに違いない。
 正輝にとって息子たちの従順でない態度ほどいやなことはない。だから、ミーチに対しあのようにふるってしまった。いきすぎた暴力をふるうこともなかったかもしれない。かといって、彼らがトラウマに落ちこむことはないだろう。ただ、下の子どもらにとって、忘れることのできない光景になるかもしれない。けれども、正輝は教育上プラスになると考えた。今日の出来事で小さい子どもは実践教育を受けたのだから…。
 正輝夫婦のしんそこからの関心事は、子どもたちの性質や行動ではなく、長男マサユキのことだった。彼には大きな期待をかけていた。息子の学業、職業の成功は父自身のものだ。失敗も同じこと。彼の失敗は自分の失敗でもあるのだ。正輝は息子がサンカルロスに住み、今はサンパウロにいる名付け親のヴァンベルト医師のように医者の道を進むことに期待をかけていた。手助けはできないが、応援することは忘れなかった。

 アララクァーラで同胞たちの絆を強めるために会を組織したように、サントアンドレでも日本人会が組織されていた。1944年渡伯した沖縄人大城助一氏はこの街の先駆者で、そればかりか、同胞のリーダー的存在だった。以前はサントスで蔬菜栽培に従事し、1937年に少し広い土地をもとめてマウア市に移ってきた。自分の畑でできた生産物をそのころ唯一の交通手段だった汽車で運び、サントアンドレとサンカエターノの朝市で販売していた。1944年、戦争の真っただなかに、サントアンドレ市のコロネル・アルフレッド・フラッケルに土地を買い八百屋をはじめた。そのころ町には日本人が少なく、サンパウロ州の他の地域のような「勝ち組負け組」の紛争はなく、問題に巻き込まれることはなかった。情報に詳しく、敗戦のこともよく知っていた。だから正輝と初めて会ったとき、つき合いにくい沖縄人という印象をうけ、彼を避けた。
 大城助一には正輝の立場が分っていたが、初対面で強い反感を示された。彼はお互いに沖縄人ではないか。たとえ、むかし、敗戦について意見を異にしたとしても、これから先、ここで生きていくために、歩みよりり、サントアンドレに同胞が集まる組織を作ろうと考えた。それが勝ち組と負け組の和解するきっかけになるかもしれないと思ってもいた。