椰子酒で乾杯
太平洋戦争直後、ビザヤの島々に進駐したアメリカの海兵たちは、島の男が全く働かないことに驚いたと言う。朝から椰子酒を呑み、まどろんでいるからだ。
その椰子酒は「チュバ」と呼ぶ。適時ココヤシに登り、花穂を切り、直径20センチメートルほどの竹の筒をぶら下げれば発酵は開始する。
好みの酸度で仲間でまわし呑む。天然の麹の発酵は、やがて酢酸発酵に移行してゆく。ココナッツの殻の繊維を竹筒に詰め、チュバ酢を濾過すれば、滋養あふれる食酢になる。
さて、ほんの一瞬のヤシの幹登り、この単純な作業に、南洋のまごころは秘められている。
海洋民族の卓越した天候観察により、ココ椰子の花序液の採集の一瞬のタイミングを外さない。
天然の酵母の働く環境により、チュバ酒はドブのような悪臭になったり、お米の吟醸酒のような芳醇な香りを放ったり、ボケーとしているようで、一瞬の好機到来に、一気に椰子の幹を登る。
南洋には月の満ち欠け、潮の満ち引きに支配された生活があり、微生物の活動が連動している。
ココヤシの花穂一本から1日1リットルの糖液を3カ月くらい生み続け、発酵の力で酒にも酢にもなる。発酵の科学知識は無くとも、ひたすら五感を磨き、瞬発力を競い合う。
パナイ島ではボクシングやレスリングの名選手を輩出するが、子供達の間に無駄な喧嘩はない。
椰子の実採集の腕前で男子の序列は完成されているからだ。
台風の中でも、椰子の実をもぎ取る男の子は英雄視される。男性の俊敏さとバランス感覚は、生活能力に直結し、その上でギターと歌謡が上手であることは女性にもてる最大の要因になる。
それゆえ、新婚さん家づくりにも、先進国のような深刻さは全く無い。
台風銀座の南洋のバンブーハウスは、最初から完璧を求めはしない。どうせ暴風や豪雨で跡形な
く消えるのだから、永遠なる仮設住まいで好しとなる。
ただし高床式のバンブーハウスの建築にあたり、床下の高さの設定は、とても重要になる。
家宝のブタを寝かせるか、建築資材を保管するか、一家の主人の決断を仰がねばならないからだ。
床の高さが決まれば、マドレ・デ・カカオの丸太の柱を立てる。屋根はニッパ椰子の葉を編んで
結ぶ。それから時間をかけて、割竹で好みのデザインを描き、壁面と窓を仕上げてゆく。
家づくりを通じて、田舎のフィリピン人の生涯をながめると、鳥類と人間の境界が消えていくように見えてしまう。それは、魂の飛翔を可能にする健康住宅の基本に違いない。
日本国では昭和の高度成長期、若い女性の配偶者の条件に「家付き、カー付き、ババア抜き」というスローガンが誕生した。
しかし、平成の御代に入り、激甚災害を繰り返し体験するうちにオール電化住宅、タワーマンション、自動車が、一瞬にして粗大ゴミに激変することを知る。
そして長きにわたりゴミ扱いしてきた年寄りこそ、子や孫を育てる道徳の柱であることを知る。 私は南洋の豪雨を二度、屋根上浸水つまり全村水没の凄さを体験したが、驚くべきは、村に死者、行方不明は一人も出ないのである。
電気も水道もなく、天気予報もない村では、村人たちは異変を感知する能力が研ぎ澄まされているので、避難行動の早いこと、早いこと。
再び驚くべきは、復興の狼煙(のろし)。とにかくマドレ・デ・カカオの丸太を立てること。
マドレ デ カカオの丸太は、耐久性に優れ、シロアリを全く寄せ付けない。
この丸太は、床下に備蓄され、災害時には通貨として機能する。ニッパ椰子の屋根の耐用年数は、2~3年。バンブーハウスを取り巻くタケ林は、家長あるいは、長老に管理され、激甚災害の時には、迅速に伐り出される。
タケ林は、定められた季節と時刻に伐られることで、永遠の活力を保つのである。南洋を源流とする竹林こそ、永遠の命の象徴として、皇室をあらわす言葉である。
人間の尊厳を守り、いく世代も、いく世代も生き抜くことは、時に、息を抜くことと想う。
中空植物のタケは、命の息吹を感じさせる。フィリピンの素朴な民謡バンブーダンス、その軽やかなリズムは、タケとヤシの森の土に染みこんでゆくように聴こえる。
乾杯の音頭(おんど)は「マブハイ」。「生き抜く」という意味が込められている。
ニッパ椰子の長大な葉は、民家の屋根の素材として日本のカヤのような存在で、河川流域に広く繁茂する。この花序液の発酵酒を蒸留するとショップトン(集福酒)となる。中国の福建省の民がもたらしたと言われ、呑むほどに眼が良くなると信じられている。
7千もの島々からなるフィリピンの海の民は、眼はとてつもなく良い、方向感覚も鋭く、親族を訪ねに島々をエンジン付き小舟で回遊する。陸(おか)にあがると、のんびりしてしまう。
朝から眠そうに見えても、バカにしてはならない。イザという時は実に頼りになる男たちだ。
南洋の人々は全般に勘が鋭く、目が良いので、実技は一度で覚えてしまう。例えば千葉県の伝統技能・上総堀り(かずさぼり)という竹の張力を利用した手掘り井戸の技法は、ミンダナオ島の農民に瞬く間に普及し、パナイ島まで普及していた。ミンダナオ島の研修生は師匠の約3カヶ月の実技に学び、職人技の要点を全て吸収してしまう。
日本の大学生が、師匠の家に住み込みで丸1年間研修しても、全く使い物にならない状況を見て、教科書による教育の限界を痛感させられた。師匠の技は武術の秘伝のごとく、見取らねば、現場で応用できる技術にはならない。バブル景気の前夜、1984年のことであった。
パナイ島の山村では、田植え、道普請などの協働作業は、金銭ではなく、ヤシ酒の回し飲みで
賄われる。20世紀末から、人口は激増し、農村電化が劇的に進み、村の生活は、アメリカ式が定着して、村人の濃密な人間関係は稀薄になってしまった。
その先兵は、コカコーラであった。気まぐれで、個性豊かなヤシ酒は消えてゆく。
マルコス政権末期の私の協力隊任期中のコカコーラ1本の値段は4ペソ、田舎では調理用バナナ50本相当。或いは椰子酒4リットルくらいと算出される。
かなり高額だが、コカコーラは、庶民の間では、温めれば風邪薬と信じられる機能性飲料だ。
アメリカ軍配給品のコカコーラは、黎明期にはアマゾニア特産のガラナエキスが惜しみなく投入されていた。ガラナとカカオは、高拓生が最初に巡り合ったアマゾニアの永年作物である。
ガラナといえば、興味本位で精力剤のイメージが一人歩きし、多様な可能性が損なわれている。
精力剤とは、強力な酸化作用を秘めるもの。それは老化の促進を意味する。
一方、カカオは、チョコレート原料であり、ブラジルナッツと共にアメリカ軍の戦闘糧食に採用された。嗜好品というよりも高カロリーの栄養食品として「疲労回復」に重きを置いている。(つづく)