1934年の暮れ近く、またも危機が襲った。11月、ピニェイロスの市場(いちば)で、仲買人がコチアのバタタをボイコットし始めたのである。カリネイロ(手押し車で売り歩く小商人)まで引き込んで、この挙に出た。コチア側は虚をつかれた。丁度、出荷の最盛期で、大事になりかねなかった。
彼らがボイコットを起こした理由は――。
その頃、コチアはリオにも市場(しじょう)を広げるため、上質のじゃがいもを送っていた。そのためにピニェイロスの仲買人には、品質の劣るモノしか販売できなくなっていた。
ところが、その仲買人の顧客がリオには多かったのである。彼らはコチアから仕入れた良質のじゃがいもを、リオへ送って売っていたのだ。つまりコチアがリオでやっていることは、縄張り荒らしであった。
その上、自分たちには質の劣るものしか売らない。それで怒り「今の内に、このジャポネースの組合を潰してしまおう」としたのである。
対して、コチアは徹底抗戦を決議。組合員以外のバタテイロにも協力を求め、仲買人への販売を停止した。すると仲買人は「コチアはじゃがいもの値のつり上げを謀っている」と新聞に書かせた。
コチアも負けずと「仲買人は、生産者と消費者の中間に居って暴利を貪り搾取している。我々は直接消費者へ安い値段で売るという趣旨のビラを数千枚、市中にバラ撒いた。
死中に活を…
この抗争について、後年、下元健吉は「あの時は死ぬか生きるか、二つに一つだと思った」と述懐している。
勝てる自信はなかったのである。1929年の世界恐慌以来、組合員の仲買人への抜け売りは、しばしば起こっていた。今回は、それが雪崩現象となる危険があったのだ。そうなれば組合は瓦解する。
ところが今回は、組合員だけでなく組合員以外も一致団結してくれた。市場にじゃがいもは一袋も出なかった。以前に比較して、経済的な余裕ができていたことによろう。逆に仲買人側に崩れが生じた。その日稼ぎのカリネイロが堪え切れなくなり、こっそり買いに来るようになったのだ。
抗争は一週間続いたが、州政府(産組奨励局)がコチア側についたこともあり、大勢(たいぜい)は決まった。錦の御旗が翻ったのだ。仲買人は最初「リオ市場から手を引いてくれ」という条件付きで和解を申し入れたが、コチアが拒否すると敗北を認めた。
下元にとっては、死中に活を掴んだ様なものであった。
しかも、この危機はチャンスに変わった。
抗争勝利がコチアの急成長への起爆剤となったのである。
抗争といっても、小さな青空市場でのそれに過ぎなかったが、この国の邦人社会には、何倍ものイメージで響き渡った。当時の邦人は殆どが農業者であり、常に仲買人に利を盗まれているという被害意識が強くあった。
その仲買人と闘って、見事に勝った――というので人気が沸騰、コチアへの加入者が急増したのだ。組合員は事件の前年の1933年は370人だったが、1935年930人、1937年には1千人を超した。事業量も同じ勢いで伸びた。下元の名も広く知られた。
運勢の下げ潮は5年で止まり、V字形を描いて上昇し始めた。この時期、この男は傑物へ脱皮して行く。(つづく)