1938年末、コチア産組の業容は、次の様になっていた。
組合員は1500人。約1割が非日系人。その営農地はサンパウロ市近郊、州西部。じゃがいも、蔬菜(トマトその他)を主に綿、鶏卵などを生産・出荷。バタテイロの殆どがカミニョンを所有。
購買部で営農資材や生活用品を販売。因みに、それまで商人から購入していた外国製の化学肥料を直接輸入したところ、彼らが暴利を貪っていたことが発覚した。既述の仲買人の件もあり、下元は生涯、商人を憎み「盗人!」と決めつけ、排除し続けることになる。
信用部で金融業務(預金・融資)。
輸送部で生産物を運搬。
医療部で組合員家族を対象に保健衛生サービス。
施設はピニェイロスの組合本部の他、各地に保管用倉庫、販売ポスト、事業所を所有(ポスト=場所、スペース。事業所=地域々々の組合員を応接する事務所。当時の呼称は別名)。
従業員は百数十人。
事業量は他の組合に比較、既述の様に桁違い、ダントツであった。
さらに1938年、コチアは農務省がリオ郊外で進めていた植民地の建設に参加した。農務大臣の要請によるものであった。農相までがコチアの存在を知り、評価するほどになっていたのである。僅か11年前に発足した小さな組合であったことを想えば、夢の様な成果であった。
登り龍の如く
全く登り龍の如き勢いだった。以後も、それは続く。
専務理事・下元健吉41歳、郷関を出でて25年、まさしく身を立て名を上げ始めていた。
しかし、何故、こんなことが出来たのであろうか。無論、それは先に触れた時勢、仲買人との抗争勝利によるものであった。が、ほかにも幾つかの要因があった。
その一つが産業組合法の制定、改正に干渉、内容を変えてしまったことである。
1932年、連邦政府が同法を制定しようとした時、法案は当初「産組の活動は一ムニシピオ内に限る」となっていた。が、下元はそれを知ると「一ムニシピオと隣接ムニシピオに…」と変更するよう要求、実現させた。無論、法律家の協力を得、州政府の産組奨励局を介しての交渉であった筈だ。さらに1938年の同法改正の折には、州全域と隣接州にまで広めさせた。
これで、活動地域を拡大、組合員をドンドン受け入れ、事業量を伸ばした。
こういうことは既存の産組機構には無いものであった。こんなことをすれば、組合同士が競合してしまう。従って一地域一組合が原則であり、相互の提携が必要な場合は連合組織を作るということになっていた。
ところが、下元は、「この国に於いては、農産物は地方の消費は極めて少ない。殆どがサンパウロやリオの大市場で消費されるか輸出されている。ために一地域一組合制でやると仲買人が何重にも介入、暴利を貪ることになり、消費者は高価なモノを買わされることになる。また、「連合組織は屋上屋を重ねるだけ」と主張、変えてしまった。
こういう発想、行動は普通の人間は先ずしない。下元だからできたことだった。
しかも――権威ある学者や政治家ならともかく――たいして年季の入っていない――まだ若い組合経営者が堂々とやってのけたのである。創造心が豊かで、度胸が並外れていたのだ。(つづく)