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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(243)

 房子はポマードをいつもこう呼んでいた。ジュンジはこの薬が丸くて底の浅い、表にラベルがない缶に入っていることは知って、その名前に疑問をもったことはない。もう何回も買ったことがある。薬局に着くなり、声をはりあげ
「イキチョール、ひと缶ください」と言った。
 売り子はよく分らない。
「なにを、ひと一缶くれといったの?」と聞き返した。
 子どもは日本語なまりの全くない発音で、
「イキチョールを、一缶ください」と言い返した。
「そんなものはありません」といったが、
「でも、それは何のくすり? どんなくすりなの。代わりの薬を売ってあげるから」
「ぜったいここにあるよ。前に買ったことがあるんだ。やわらかくて、黒くて、強い臭いがする。これぐらいの丸い缶に入っているんだ」といって、右手の親指と人差し指で丸をつくった。
「どこかにぶっつけて、紫色になったときつけるんだ」
「何ていった? の」
 ジュンジは一音一音分けていった。
「イーキーチョール」売り子は笑いころげて、
「もう一回、いって」という。
 ジュンジは「イーキーチョール」とくり返した。
 売り子の笑いは止まらなかった。
「何がおかしいんだ」
 ジュンジは腹を立ててしまった。そして、ようやく説明をきいた。
「ポマードの名前は、あなたの言ったのとはぜんぜん違うわ。イチオル(Ictiol)というのよ。店にくるときは大きい缶に入っているけど、お客さんに売るときはあなたのと同じような小さい缶に分けて売るの。みて、この薬じゃない?」
 そういいながら小さな缶の臭いの強いポマードを見せた。
 ジュンジが肯定するまえに、もう一度訊ねた。
「この大きさの缶のが欲しいのね?」
 こうやって、ジュンジはポマードを買うことはできたのだが、どうして薬の名前が違うのか納得できなかった。母にいきさつを話し、彼女の発音を治そうと思った。
「母さん、薬の名前はイチオル(Ictiol)だよ」母はその意味がわからなくて
「そうよ、イキチョール(ikichooru)よ」
 ジュンジはますます分らなくなった。