房子はポルトガル語をまず、片仮名に書き換える。このとき、無声音の子音は母音を足し、一音に、アクセントのある母音は長音に、Oの発音は口を閉ざす。音によっては語り手がかってに変える。
このような方法によって、イチオル(Ictiol)が房子の発音のようにイキチョール(ikichooru)になっても仕方がないのだった。
年下の子どもたちにとって、学習はそれほど重荷になるものではなかった。けれどもニイーャンは違っていた。仕事、時間、移動、勉学にあけ暮れる毎日には、むりが出てきていた。CPORに通うほか、市役所で1日働き、その上、医科大学受験の予備校に通っているのだ。その三つを完全にやりとげるのはたやすくはない。とくにしわ寄せがいったのは予備校だった。当時、サンパウロにはサンパウロ医科大学とパウリスタ医科大学の2つしかなかった。限られた人員に大勢の入学志望者が殺到した。教えられることは全て頭に入れた。先生のいうこと、黒板に書くことを筆記した。
高校卒業のとき、父からもらったパーカー21万年筆を使い、そのころはやっていた耐水性のないブルーブラックではなくパーカーQインクボルトを持ち歩いていた。予備校の授業が三ヵ月すぎたころには耐久性の強いペン先でも斜めにすり切れたようになっていた。ふつうパーカー21のペン先を取り替えるのは、あやまって床に万年筆を落としてペン先が傷んでしまったときだけだ。ニーチャンの場合は万年筆の使い過ぎで、だめになってしまったのだ。
それほど努力したのに、結局、初めて受けた医科大学の入学試験に落ちてしまった。正輝はそのことをあまり悔やまなかった。非常に競争率の高い部門だし、息子の努力も分っていたからだ。来年またそのチャンスがあると慰め、彼が医者になる夢を支えつづけた。医者は社会的に評価され、沖縄人、日本人だけでなく隣近所の人や西洋系の友人にも注目される職業なのだ。
1956年もニーチャンの困難な生活がつづいたが、その年、CPORを卒業することになった。ニイチャンの卒業式は休日の8月15日で、サンパウロのパカエンブ市立競技場で行われると両親に告げた。すばらしい式だから、いまから準備をはじめるようにといった。