産青連(上)
年輩の組合員がそうであったため、下元は若者に期待した。
折から、日本では産業組合の改革運動が、農村の青年によって活発に展開され、全国的な広がりを見せていた。彼らは産業組合青年連盟(産青連)を結成、この運動を推し進めていた。普通、産青連運動と呼ばれた。
運動は、農村に於ける生産物の販売、営農資材・生活用品の購入などの諸事業から中間業者を排除、組合自身の手で行うことを目的としていた。つまり外部の商工業者に吸い取られていた利益を村に還流させ、豊かで文化的な生活を実現するという狙いであった。
これを、先ず米から始めた。米穀商を排除、その流通を組合自身でしようとしたのである。ために農家の説得を日夜行った。米穀商の買付け人が村に入ろうとすると、これを阻止した。乱闘騒ぎになることもあった。
産青連は最終的には、資本主義でも社会主義でもない理想的な社会を建設しようとしていた。日本の農村の大改革つまり革命を目指していた。
この構想は、戦前の農業界の指導者で戦後の“農協王国”の基礎を築いた千石興太郎という人物が発案した。当初は、出版物や講演会で説いていたが、それが農村の青年層に支持されているのに気づいた。そこで1933(昭8)年、全国に呼びかけ、この目的達成のための青年層の組織化を提唱した。反響はよく同年、産青連が結成された――という次第である。
産青連は1936年には全国に4530支部、盟友37万人を数えた。大変な勢いであった。
これは政界、官界、学会も巻き込む社会運動に発展、後に「戦前最後のロマン」と形容された。
下元健吉は、この動きを知った時、脳裏に何か煌めくモノを感じた。以後、運動を導入しようとした。彼は、そのために組合員の子弟や組合の若手従業員に着眼した。若者は変化を欲し、頭が柔軟であり、団結し易い。農場では労働力の中心であり、組合内では実務の担い手である。いずれ農家の戸主、組合の中堅となる。
幸い下元は、彼らに親しく人気があった。組合創立間もない頃から共にテニスを楽しみ、野球をやり、山に登った。組合に関し真剣に議論をし、その意見を取り入れた。
下元は仕事の場では厳しかったが、それ以外では慈父の様に優しく、笑顔がたまらないほど良かった。背は低く、その上に怪異な顔を乗せ、少し前かがみになって蟹股で歩いたから、格好は良くなかった。が、それが却って愛嬌になった。ともかく若者に好かれた。彼らは、当人が居ない処では、下元を“おやじ”と呼んでいた。
そういう下地もあって、下元はブラジルにも産青連を組織しようとした。ただ、コチアだけでなく日系産組の総ての青年を動員しようとした。そのための推進機関として選んだのが日伯産業組合中央会である。これはサンパウロ日本総領事館の肝いりで1934年に発足した団体である。日系産組の殆どが参加していた。「産組中央会」あるいは単に「中央会」と呼ばれた。下元はその専務理事も務めていた。(つづく)