下元は政府の圧迫を見事切り抜けた。が、圧迫はこれで終わりではなかった。
執拗なことに、別方面からも来たのだ。在サンパウロ米国総領事館が、関係機関に干渉、コチアに対するガソリンの配給を止めさせたのである。
対して、下元は怯んではいなかった。
「向うが、そういう理不尽な手を打つなら、我々は出荷を止める。困るのはサンパウロ市民である」と、監事の井上ゼルヴァジオ忠志に米国総領事を訪問させ、その非を説かせた(井上はブラジル国籍所有者であり、監事に起用されていた)。
この時は、実際、ガソリン不足からコチアのカミニョンが動かなくなり、農産物の市場への入荷量が急減、市民の生活を直撃した。コチアの出荷量は、それほどの比率を占めていたのである。配給停止要求は、総領事が撤回した。
以上の「リスタ・ネグラからの除外以下の反撃は、下元健吉の“戦中突破”の始まりであった。これについては、多くの関係者が後々まで評価することになる。
後世の我々から見ても、この時期の下元は輝いて見える。
本稿の冒頭で記した様に、下元を邦人史上の傑物の筆頭に位置づけるとしたら、右の果敢な行動が根拠の一つたり得るであろう。ほかの指導者の中には、そういう人物は居なかった。
彼に、それが出来たのは、その度胸、闘争心によるものであった。
傑物ぶりに磨きがかかった時期でもあった。
戦中突破(中)
下元は産青連に関しても、食糧増産研究という名目で、集会開催の特別許可を取った。盟友たちが出席、活動を続けた。下元が産青連を如何に重視していたかが判る。
なお彼が、これだけの戦中突破策をとることが出来たのは、フェラースという片腕を確保していたからである
二人の交友は10年ほど前に始まった。フェラースは「マノエル・フェラース・デ・アルメイダ」というポルトガル系ブラジル人である。
彼はコチア創立数年後の1931年、組合本部に下元を訪れた。当時、サンパウロ法科大学で学びながら、ジアリオ・サンパウロ紙の記者をしていた。偶々、産業組合法が立法化する動きにあり、それに関する記事を書くための取材であった。
この時、下元は31、2歳、フェラースは21、2歳であった。下元は真剣に“産組”を語り続けたという。無論、半ば通訳の助けを借りてであったろうが。
その下元にフェラースは強い興味を抱き、以後しばしばコチアに足を運ぶ様になった。後年「私はコペラチズムと出会わなかったら、共産主義者になっていたろう」と語っている。
1933年に大学を卒業、弁護士となり、州政府の産組奨励局の仕事に関わるようになった。同時に、下元の誘いでコチア産組の顧問弁護士になった。
翌年、ピニェイロスのじゃがいも取引市場で仲買人とコチアの抗争が起きているが、この折は――記録は残っていないが――フェラースが陰でコチアのために奔走、奨励局を味方につけたと筆者は読んでいる(本稿第10回参照)。
また、1932年の産組法の立法化と、1938年の同法改正の折、下元は、その内容を修正させている。これにはフェラースが協力していた筈である。
この間、二人の間柄は至極親密になって行った。
前記の下元のフェラースへの理事長職委託は、そういう経緯を経てのことであった。が、その時、フェラースは迷った。ブラジル社会には、反日感情が高まっており、自分も、その対象になることを危惧したのだ。
といって断れば、下元ら友人を苦境に追いやることになる。
結局、彼は尊敬する母親に相談した。対して母親は「それが、苦境にある友人たちを助ける所以なら、断固として引き受けよ」と答えたという。
フェラースは33歳、下元は43歳だった。(つづく)