ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=死ぬことは生きることなり=パンデミック時代の仏教の教え=サンパウロ市在住 中野晃治

特別寄稿=死ぬことは生きることなり=パンデミック時代の仏教の教え=サンパウロ市在住 中野晃治

1918年、米国カリフォルニア州オークランドでのスペインかぜの流行=オークランド公立図書館(Edward A. “Doc” Rogers, 1873-1960/Public domain)

 大変な事態になってきました。人智を超えた大自然の反応になす術もないインフルエンザ・バンデミックで、多くの大切な人命が目の前で失われつつあるのです。
 日本のIDSC(感染症情報センター)によると、パンデミックが科学的に証明されているのは、20世紀にはいってから1918~19年スペインインフルエンザ、1968~69年アジアインフルエンザ、1968~69年香港インフルエンザと呼ばれ、それぞれが異なる様相を呈しています。
 日本の内務省衛生局によると、スペインインフルエンザ(俗にスペイン風邪と呼ばれる)は、第一次世界大戦中の1918年から1920年の2年間、新型ウイルス(H1N1型)によるパンデミックがおこり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染、想像を絶する4千万人~5千万人が死亡したのが「スペイン風邪」といわれています。
 スペイン風邪の発生は、今から遡ること約100年前、アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵舎からだとされています。それは第一次世界大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制外の自由な立場から、新型ウイルスの感染と惨状が世界に発信されたからと言われています。
 日本では、約300万人の感染と約38万人の死亡者が出たと報告されています。
 「スペイン風邪」の第一波は1918年3月アメリカと欧州で始まりましたが、アメリカで同時に始まった第二波は約10倍の致死率になり、死亡例の99%が65歳以下の健康な若年層を中心に発生したといいます。
 これに引き続いて北半球の冬である1919年の始めに第三波が起こり、1年をスパンに3回の流行が見られたといわれます。

新型コロナウイルス

 スペイン風邪の治療経験を生かした対応がとられている新型コロナウイルスの現状について、2020年4月26日のロイターによると、2019年12月上旬に中国・武漢で発生し、世界中の212カ国へと感染が広がっている新型コロナウイルス「SARS―CoV―2」で、291万7013人が感染し、少なくとも20万3264人(7%)が死亡しています。
 188万7882人は治療中、82万5867人が回復していますが、世界保健機構(WHO)は3月11日、新型コロナウイルスはパンデミック(世界的な大流行)に相当すると表明しました。
 ブラジルでは最初の新型コロナウイルス感染者発見から今日まで、5万8509人が感染、(68%が50歳代まで)4016人(6・9%)が死亡、2万9160人が回復していますが、日毎に増加の一途をたどっています。
 日本では、1月6日中国に武漢から帰国した神奈川県在住の30歳の男性が、今回の新型コロナウイルス感染が初めてで、現在までに1万4083人が感染、379人(2・7%)が死亡、3181人が回復しています。

大切な人命が失われる

 日毎にあまりにも多くの死者が増加し続けているのを見るにつけ、深い悲しみと悔しさと虚しさに憤りさえ感じる毎日です。大自然の反応を前に人智の虚しさに途方に暮れていますが、人の命の大切さを思い起こすきっかけにもなるのではないでしょうか。
 身の危険をもかえりみず、集中治療室で患者の治療に専念している医療関係者がいる一方で、医薬品や医療機器が不足し、患者の気持ちが理解できずコミュニケーションが思うように出来ない医療者が増えることで、取り返しの出来ない医療事故の多発へとつながっているようです。
 そして医療関係者は命を救うべく努力する中で、どうしても避けられない死や、生きていてもなお辛い現実を知り、この世の真理や命の神秘とその連続性に日夜直面しているのです。

お釈迦様の教え

木造阿弥陀如来坐像 (平等院・鳳凰堂、日本語: 定朝(11世紀), 図鑑:福山恒夫 森暢 編/Public domain)

 新型コロナウイルスの陽性反応が出て患者体験をした人達は、病気の告知やその治療体験、変わってしまった日常生活などを通じて、命のはかなさやそれゆえの尊さ、有限性を実感しているのではないでしょうか。
 お釈迦様は2600年前インドで生まれられ、この地球上でただ一人仏の悟りを開かれた方で、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後にも仏なし」と言われています。
 こうした苦しい今をイキイキと生きるためにお釈迦様は、この世の真理を解き明かす4つのキーワードをお示しになっています。
 出発点は「一切皆苦‐いっさいかいく(人生は思い通りにならない苦しみ)」と知ることから始まり、仏教の「苦」とは「四苦八苦」と呼ばれ、「死」死んでいく苦しみ、「病」病気の苦しみ、「老」老いの苦しみ、「生」生きる苦しみの四苦。八苦は「五蘊盛苦ごうんじょうく(心身を思うようにコントロールできない苦しみ)」、「愛別離苦あいべつりく(愛する人と何時かは別れる苦しみ)」、「怨憎会苦おんぞうえく(憎しみを抱く人と出会う苦しみ)」、「求不得苦ぐふとっく(お金や地位、名誉など手に入らない苦しみ)」の八つの苦しみが挙げられます。
 これは誰もが実感することばかりではないでしょうか。
 これらの苦しみは、なぜ生まれるのかを理解するには、お釈迦様が挙げた三つの真理を知る必要があります。
 この真理を、「諸行無情しょぎょうむじょう(すべてはうつり変わる)」とし、「諸法無我しょほうむが(すべては繋がりの中で変化する)」という真理にあると考えます。
 これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく安定した状態になり、つまり、苦しみから解放される、とお釈迦様は解かれています。
 これが、目指すべき「涅槃寂静ねはんじゃくじょう(仏になるために仏教が目指す〃さとり〃)」なのです。

おもしろい仏教

 仏教はおもしろい宗教だとおもいます。「おもしろい」というと「とんでもないことを…」と怒る方もいるかもしれません。
 阿弥陀様⦅三世十方(過去、現在、未来と東西南北、西北、西南、東北、東南、上、下の称)諸仏の本仏⦆の願いは「ほんとうに疑いなく私の国、お浄土に生まれると思え」といわれます。
 これはすさまじいことです。死んでいる人間をつかまえて「これは死ではない。浄土に生まれていったのだ」と言い切れることは大変なことです。
 むかし中国に道吾(どうご)という禅僧がいました。
 あるとき檀家さんから葬儀をしていただきたいというので、弟子の漸源(ぜんげん)を連れてお葬式に行きました。いよいよ棺桶のふたを開いて道吾がなくなった方に引導(浄土へ導くこと)をわたそうとしたとき、漸源が棺桶をおさえて「これ死か、これ生か」と聞いたのです。
 考えてみると、死んでいるものに引導を渡しても、聞く耳もさとるこころも無いから無意味なのです。もし生きているならば葬式をすること自体が無意味じゃないかというのです。
 おそらくもっと端的に「生とは何か、死とは何か」と尋ねたのでしょう。
 そのとき道吾は「死ともいわじ、生ともいわじ」と答えました。
 すると漸源は「どうしていわないのか」とつめよります。
 しかし道吾は「何としてもいわない」といいはります。「いわなければ葬儀はださせない」と、棺桶の前で禅問答が始まりました。
 これでは葬式が進行しません。遺族たちは困ってしまって、一人が「禅問答は後にして、とにかく葬式だけはしてください」といい、葬式だけは済ませました。
 しかし帰り道で、漸源はまた同じことを問いかけ、道吾は同じ答えを繰り返すばかりでした。
 しかしそれからずいぶん経って漸源は生死を超える悟りを開きます。そのときに漸源は「あのとき師匠はよく答えてくれなかった。言ってくれなかったおかげで私は、生死の真の意味を悟ることができた」と喜び、感謝したと」言うことです。
 死んでいる人をつかまえて「生きているか、死んでいるか」という弟子もすごいが、「いわない」といった師匠も師匠です。
 しかし、言ったら嘘になるというところが道吾にはよく分っていたのでしょう。いかにも禅問答の話です。
 しかし、阿弥陀様は禅問答しません。「私の国に生まれると思いなさい」と言われます。
 しかし浄土に生まれるという「生」は、死に対する「生」ではなく「無生の生」で、迷いの生を超えた不生不滅(生じることなく滅することなく常住不変)の悟りの境界に生まれることなのです。

浄土を描いたマンダラ、絹本著色浄土曼荼羅図(Unknown Kamakura-period artist/Public domain)

 しかしながら生死にとらわれている凡夫には、「無生の生」といわれてもわかりません。
 私たちの凡夫の情に応じて「生」とのみ言われたのです。このように死ぬのではなく、お浄土に生まれることになると、死んだ人はやすらかな涅槃(人間が持っている本能から起こる、心の迷いがなくなった状態)の境界に生き続ける方ということになります。
 私たちはなくなった方に対して「かわいそうだ、気の毒だ」といわずに、「死に別れることは悲しいけれど、亡くなった方はお浄土に生まれて、真実の安らぎを得られた方」といえることができるようになるのです。
 逆にお浄土に生まれて、仏様にさせていただくものが、どう生きてゆくべきかを問われるのです。浄土真宗のみ教えは、「浄土にうまれる」という言葉で、仏の子としてよみがえることであると言ってもよいでしょう。     合掌
(本願寺派正宣寺寺報の掲載記事転載)