ホーム | 日系社会ニュース | 追悼寄稿=高木オズワルド氏を偲んで=サンパウロ州アチバイア在住 中沢宏一

追悼寄稿=高木オズワルド氏を偲んで=サンパウロ州アチバイア在住 中沢宏一

植樹をする高木オズワルド氏(Facebook/Massayoshi Marli Furuno)

植樹をする高木オズワルド氏(Facebook/Massayoshi Marli Furuno)

 心臓疾患でここ一年ほど病院通いをしていた、高木オズワルド氏がお亡くなりになりました。近年は州政府との企画で個々の農家の水源地にブラジル原産の樹木を植林して、パライーバ川の水資源を確保し、家畜の糞尿の処理施設を州政府が支援する計画をクーニャ地方で精力的に推進してきました。

 スポーツマンで元気一杯、体力には自信を持っていました。しかし誰にでも来る老化現象に気づくことが遅く、病魔に勝てませんでした。惜しい方を亡くしました。

 オズワルド氏に直接お世話になった二つの事を回想し、追悼文と致します。

 第一に県連日本祭です。県連は郷土食郷土芸能祭としてイビラプエーラ公園で始め、4年後の2002年に州議会駐車場に移りました。その年に私が県連会長に就任しました。

 不安視される中、サンスイ社の大型テントを張り、関係者一丸となって頑張りました。無事終わり、祭の盛況を喜んでおりましたが予定していたスポンサー料が入らず、30万レアルの経費で12万の赤字となりました。

 この窮地を県連役員の県人会が協力して立て替え、祭の名称を「日本祭り」として3年間続けました。サンパウロ州政府、州議会の後援、及び日本政府のジャイカ、交流基金、ジェトロも参加して年々充実してゆきました。

 ところが拡張する余地がないことと駐車場の問題で移転することが決まりました。

 サンパウロのイベント会場を調査しましたが、現在も続けて会場となっているイミグランテに的を定め、交渉が始まりました。イミグランテは州農務局の施設で家畜の臭いのする所でした。農畜産展以外は書籍のイベントが行われている程度で、日系社会では全く知られていない場所でした。そことの交渉をオズワルド氏が協力してくれたのです。

 実行委員長は奈良県人会会長の有北ゆきみさんでした。女性ならではの子供コーナー、運動会など新しい企画をたてていましたが急死されました。そのため鹿児島県人会会長の田畑稔氏に前年度に続き就任してもらいました。

 田畑氏はコチア産業組合員で農業に携わっていましたし、オズワルド氏は連邦農務省出身なので交渉がスムーズに進み、特別安く契約することが出来ました。

 オズワルド氏は農務省時代、セラード開発計画の部所におりました。日系ではセラード開発に関する連邦役人としては山中イジドーロ氏が有名ですが、実務者としてオズワルド氏が活躍しておりました。コンピューター、英語に堪能で企画力があって、日本との様々な計画に関係しておりました。

 そのような実力者ですので農務局長とも気軽に会見でき、私も幾度も同席させてもらいました。彼はどこへ行くのも普段着で通し、日本人の私からすると役所の中ではふてぶてしく、ズーズーしい態度に見えましたが、州の局長級の人物と気楽に接することの出来る人は他になかなかいませんでした。オズワルド氏も省内に日系人が育っていないことを嘆いていました。

 日本祭は現在、日本文化をテーマにした外国現地で主催される祭りとしては世界一と言われるビッグイベントと発展しております。

 改めてイミグランテへの移転時のオズワルド氏の功績を紹介し、感謝致したいと思います。

 第二にリベルダーデの七夕祭の件です。宮城県人会会長大橋鉄男氏が仙台七夕祭導入を計画し、1979年に第1回が行われました。宮城県人会が23年間も主催して育ててきた「サンパウロ仙台七夕祭」でしたが、2002年にリベルダーデ商工会が特許申請している、とのうわさを聞きました。

 ですが、「同じ日本人同志でそのような申請は有り得ないし、日本の固有名詞を登録出来るはずがない」と聞き流しておりました。

 七夕祭が始まった頃、リベルダーデの商店は土曜日は12時まで、日曜日は休みの時代でした。七夕祭がテレビの全国版で放映されて、リベルダーデの宣伝に貢献していると自負している宮城県人会でした。

 ところが申請したのは事実でした。「仙台七夕祭は日本国のもので、これは国際問題です」と宮城県、仙台市、領事館に相談しても、「ブラジル日系社会の問題だから話し合いで」と関与したがらない。

 日系の政治家、団体は「同情はするが仲介はしない」という姿勢だった。10年後の2011年、名称を変えたリベルダーデ文化福祉協会は外から適当な人間を集めて実行委員会を作り、「当会がパテント(名称使用許可)を持っているので今年から七夕祭を主催する」と伝えて来ました。宮城県人会は市役所にこれを訴え、市役所は話し合いの場を設けてくれました。

 その時、オズワルド氏が協力してくれたのです。彼のお陰で宮城県人会の主催が守れました。孤軍奮闘の県人会を彼が親身になって市役所に行って事情を説明して2年間続けられました。しかし、宮城県人会は年毎に強まる圧力に抗しきれず、断腸の思いで2015年に手放すこととなりました。

 オズワルド氏が健康を維持して条件が整っていたら、抜群の農業関係の企画力と人脈を活かした交渉力で、未来に遺す事業を展開しただろうと思うと残念でなりません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。