付記すれば、この間、信念派が大量に拘留されていたDOPSや未決囚拘置所に、コチアのマークを車体に記したカミニョン(トラック)が出入りする姿が、拘留者から目撃されている。
それを見て、常盤ホテルの集会での下元の「食糧はコチアで持つ」という発言を思い出す者がいた。その情報が外部に漏れ広がった。
以上の様な不手際の重なりで、信念派間の反感が激化、下元には脅迫状が何通も舞い込み、警官が護衛をする様になった。
1946年8月、パウリスタ延長線から出て来た信念派の若者3人が、下元を狙ってコチアの本部に接近、そばのバールに入った処を、警戒中の警官に逮捕された。
しかし下元は怯まず、信念派の組合員には、融資を止めるなど、種々の締め付けを行った。彼らは組合を去って行った。
下元の失敗談、続く
終戦直後に始まり、次第に深刻化した騒乱の中で、認識派の中に邦字新聞を復活させようとする動きが生まれていた。活字で正確な情報を伝えれば、敗戦は認識され騒乱は鎮まると考えていたのである。
前出の野村忠三郎も、その一人で、同志と準備をしていた。発行のためには、まず連邦政府の許可をとる必要があった。外国語新聞は開戦直前、政府によって発行を禁止されていたからである。
資金も必要だった。
その許可取得の交渉や資金集めをしている間に、野村は逝ってしまった。計画は同志によって受け継がれ、政府の許可も得、資金確保の目途も立った。資金確保では、下元が有力組合員に出資を頼み、組合で一時立て替えるという無理な手すら使った。
かくして1947年1月、パウリスタ新聞が発行された。
そういう経緯から、後年、同新聞は認識運動の推進に大きな貢献をした――と自負する様になった。余程、効果的な運動を紙面で展開したのであろう。
が、筆者は、創刊後の数年分の紙面を読み直して、首を傾げた。
同紙発行時、襲撃事件が一件起きているが、それを報じた記事は、感情的に決行者を叩く内容で、冷静さを欠いている。事件は以後、起きていない。
同紙としては、認識運動を進めるためには、過去に起きた事件を、一つ一つ調べ直して、真相を把握、報道すべきであった。が、全くやっていない。
事件とは別に、信念派の言い分も取材、紹介すべきであったが、これも同じである。記者が書こうとしても編集部の幹部が撥ねつけたという。
筆者は、「これでは、コチア産組の週報同様、反感を招くだけで、信念派の啓蒙には役立たなかったろう」という読後感を持った。
啓蒙記事は、邦人社会の動きを報じる頁には、殆ど見当たらなかった。何度も見直している内に、日本のニュースを伝える別の頁に国政の動きが掲載されていた。
読者がその内容を信じた場合、敗戦は事実ということになる――というていどのモノであった。(つづき)