多くの人々の生活を巻きこんだ臣道聯盟の裁判はいまでも尾を引いていた。
まだ何人もの被告が尋問を受けておらず、証人した者たちもよび出されていなかった。裁判官の証言召喚が被告の移転のため本人に届くのに時間がかかったからだ。
正輝がいい例だ。はじめアララクァーラに通知が行き、そのあとずいぶん経ってからサントアンドレに召喚状が届いた。そして、尋問から半年以上たった1955年8月16日の午後4時にもう一度出頭しろという通知があった。これは第1裁判所の間違えによるものだった。
裁判官に申し出た弁護士の要請により、尋問は却下された。臣道聯盟問題は長い間、頭痛の種で、いまだに解決していない。弁護士の報酬も、月賦払いにしてもらっているが、まだつづいている。被告人のなかにはもっと深刻な問題を抱えている者もいた。海外旅行のためには裁判官の許可が必要なのだ。
半田倉蔵氏の場合がいい例だ。半田倉蔵、国籍日本、既婚者、住所コンセイソン大通り972番地、住居の隣でガソリンスタンドを経営、1902年生まれ、1914年からブラジルに在住。4人の子弟があり2人は歯科大学を卒業、リベルダーデ区ヴェルゲイロ街で歯科医院を経営、3人目は父親とガソリンスタンドで働き、4人目は学生。
半田氏が訪日するときにエルクラノ・ネーヴェス弁護士は申請書にこう書いた。
「申請者は日本人女性と結婚しており、兄弟、親戚が日本にいる。およそ40年間、わずかな文通で消息を交し合っていた。ずっと勤勉に働き、子息たちの教育に意を注いでいた。全員ブラジル国籍で、2人はサンパウロの大学を卒業している。55歳を迎え、これまでの成果をもって、日本に残った兄弟と再会したく故郷を訪れるため、判事に訪日の許可を申請する」
この嘆願書が出されたのは1957年6月16日で、臣道聯盟の訴訟が始められてから11年も経っていた。
まず弁護士がとった手段は検察局に問い合わせることだった。検事の処置は違法な署名をさけるため、厳しかった。
「政治的不正行為を行ったり、政治犯の国外追放が行われる場合も考えられ、現在の状況からみて国外追放条約により申請を却下する」
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