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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(25)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩

マズかった南銀との絶交

ジャグァレーのコチア産組本部(中央のビルが1977年落成)、手前が肥料・飼料工場

ジャグァレーのコチア産組本部(中央のビルが1977年落成)、手前が肥料・飼料工場

 南銀としては、コチアは、そこで動く金の量からしても、是非欲しい顧客であった。が、下元がそうであったため、1957年の彼の死後も、後継者は南銀との取引はしなかった。
 そのコチアと南銀が、コロニア経済界の二大城郭に発展して行ったのである。
 しかも半世紀後の1990年代、コチア、南銀とも突如、落城した。
 筆者はコチア瓦解の原因を追究中、唖然としたことがある。財務管理が余りにもお粗末で、今時、町工場でも、こんなことはやってはいまい――と呆れるほどだったのだ。
 もし南銀との緊密な関係が維持されていたら、その忠告や協力で、まともな財務管理が出来るようになっていたであろうし、瓦解は避けられたかもしれない。避けられなかった要因は種々あったが、直接的には、放漫な財務管理の結果、高利の借金が膨張、資金繰りの歯車が砕け散ったことにあった。
 南銀の場合は、中銀の理事から迫られた大型増資をできず、身売りに追い込まれた。コチアとの関係が良好であったら、半世紀の間に、もっと資本力をつけており、なんとかなったかもしれない。
 コロニアの歴史は相当、変わっていた筈である。

内部では権威確立

 かくの如くで、終戦直後から、下元は対外的には調子を乱れさせ続けた。が、コチア内部では権威を確立していた。例えば、組合員の地域代表が、交渉事で組合本部を訪れた場合、下元と会わなければ用が足せないほどだった。下元と話せば安心できる、落ち着くという雰囲気があった。
 なお戦後、下元はフェラースらブラジル人理事をそのまま続投させ、自分は1948年、専務理事に復帰していた。
 下元が権威を確立したのは、戦中、組合を守り切っただけでなく、事業を飛躍的に伸ばした実績による。
 しかも、その伸びの勢いは戦後も続いていた。何故、続いたのか? 
 これはサンパウロの人口増による。戦中は100万人台だったそれが、1950年代には200人台に膨れていた。以後も同様で、農産物の市場は拡大一途だった。
 さらに、戦中絶えていた地方からサンパウロ周辺への邦人の移動が再び始まった。彼らの多くがコチアを頼った。
 同時期、コチアは地方でも活動地域を広めており、そちらでも組合員が増えていた。
 下元が権威を確立したのは、他に専務の職をこなせる人間が居なかったことにもよる。
 彼は経営を独裁、時に「コチアは俺がつくった」などと舌を滑らしてしまうこともあり、組合員の間には、アンチ下元派も存在した。彼らは「コチアの下元か、下元のコチアか」と憤慨した。
 しかし、それが専務更迭にまで発展することはなかった。組織がここまで大きくなると、余程の器量と実績の持ち主でない限り、無理であった。そういう人材は居なかったのである。
 それと、もう一つ、組合内に下元の強力な支持層が形成されていた。旧産青連の認識派の盟友たちである。彼らは同志意識を持ち続けていた。年齢は壮年期に入りつつあり、組合員や職員の中枢を占める様になっていた。その盟友たちが下元の手足となり、かつ周囲を固めていた。
 産青連の盟友だけでなく、彼らより若い世代の組合員子弟、職員の中にも、下元の人間的魅力に惹きこまれる者が多かった。
 下元は仕事を離れると、穏やかな人柄だった。仕事以外の場で、若者たちが何をしようが何を言おうが、怒った顔を見せたことがなかった。戦時中に始めた蘭を愛好し続け、その鉢は何千という数になっていた。神経は案外、繊細だったのだ。それが、また人としての魅力になっていた。
 ついでながら、彼は身辺は清潔であった。金銭や女性に関する芳しからぬ噂はなかった。
 この様にして確立した権威によって下元は、依然、新社会建設を目指していた。
 そう、彼はまだそれを追求していた。
 すでに記した様に、産青連運動の再開、日系産組の再編成による新社会建設の目論見は消えていた。しかし諦めてはいなかった。コチア独自でやろうとしていたのである。
 そのため1947年、ジャグァレー区に4平方KMの土地を購入、巨大な肥料、飼料工場を建設し始めた。その一期工事は1950年に、二期工事は1953年に完成した。いずれも業界では最大規模であった。組合員が消費する肥料や飼料から、外部の業者を排除することが目的だった。(つづく)