波頭の上に…
1955年のコチア青年の導入開始後、組合員の出荷総量は伸び続けた。下元の目論見は当たったのである。
1957年4月、コチア産組は創立30周年を記念して――ジャグアレー区に入手した土地で――農業展覧会を開催した。農業関係の機械類、生産物、同加工品、写真、農村生活の模型品を展示した。
生け花まであった。生け花は、コチアの組合員は土まみれになって働くだけでなく、こういう文化も家庭に取り入れています――という宣伝であった。
絶好の秋日和の下、5日間で35万人の市民が入場した。農務大臣、第二軍司令官、州知事、州農務長官そして駐伯日本大使の姿もあった。下元健吉、一世一代の晴れ舞台だった。
絶頂期の、その波頭の上に立っていた。
郷里の高知県の山村で過ごした少年時代、胸に育んだ「身を立て名を上げ…」の夢を遂に実現したのである。神戸の港を船出してから43年が過ぎ、59歳になっていた。
コチアの組合員は5千人台、所在地は4州(サンパウロ、リオ、パラナ、ミナス)に広がり、事業所は40数カ所、職員は1800人という数になっていた。
事業は販売、購買、信用、利用の4部門によって推進されていた。
販売部門はバタタ、鶏卵、トマトが主で、サンパウロ市場への総入荷量中、コチアの占めるシェアはバタタは25%、鶏卵30%、トマト25%という高率さであった。トマト以外の蔬菜、果実、雑穀なども扱っていた。
その販売のため、サンパウロ以外にも各地に多数の出張所、販売ポストを所有していた。
さらにバナナ、茶、ラミー、薄荷油を欧州、中南米に輸出中だった。
購買部門は肥料、飼料、農薬など営農資材と生活用品を、組合員に供給していた。
信用部門は組合員から各種預金を預かり、組合員に融資していた。
利用部門というのは一寸判りにくいが、例えば医療部がそれである。この頃、診療所以外に、医師や看護婦が車で地方を巡回するサービスも実施中だった。ほかに輸送、修理、工務、木工鍛冶、品質検査、農事試験などの部門もあった。
コチアの事業規模は、産組としては無論ブラジル一であり、ラ米一と観る説もあった。
組合員の家族の総数は4万人を超していた。その総てではないが、大半がコチア人意識を持ち、日々の暮らしの多くを、組合の傘下で営んでいた。
かつて下元が唱えた「産業、経済、教育、衛生、その他百般の事業を産組が統轄、経営…」とまでは未だ行っていなかったが、そのかなりの部分が実現し、「コチア」という名の新社会が存在した。
ブラジルの農業界から荘園式ファゼンダは姿を消し、そのファゼンダで奴隷に近い生活をしていた移民が、ここまで来たのである。他の産組も、規模、事業内容は別として、コチアの後に続いていた。
農業界の大改革、革命が実現しつつあった。下元健吉は、その先頭を走り続けていた。(つづく)