ホーム | 連載 | 2020年 | 新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩 | 新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(30)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩

新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(30)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩

井上ゼルヴァジオ忠志理事長

井上ゼルヴァジオ忠志理事長

 最後の失敗

 下元健吉の最期は、いかにも彼らしい劇的な幕切れであった。
 しかし、これは、その生涯に於ける最後の失敗でもあった。自身の健康管理を怠り、なすべきことをやり残したまま逝ってしまった――という失敗である。
 なすべきこととは、例えば、自分の…つまり専務理事の後継者=経営実務の采配者=を用意していなかったことである。
 因みに、コチア産組では前年、理事長フェラースが他界、下元は、その後任に理事の井上ゼルヴァジオ忠志を据えていた。ゼルヴァジオは貴公子然とした容貌と円満な性格で、職員と組合員から好かれ、統率者としての素質はあった。
 が、経営の実務を牽引するリーダー・シップの持ち主ではなかった。その役割は別の人間が、専務として担わねばならなかった。
 下元が死を覚悟していたとすれば、当然、その後継候補を用意しておくべきであった。それをしていなかったのである。ために以後、専務は、その時々の成り行きによって選出され、次々と変わった。
 経営組織・管理業務の合理化も、やり残していた。特に財務面がそうであった。
 コチアは1994年に、時の専務の財務管理の放漫さが引き金になって、瓦解することになるが、その時、筆者は古くからの事業・財務報告書に目を通してみた。
 が、内容のお粗末さに唖然とした。要するに意味不明で(これが天下のコチアの?)と疑うほどであった。秘書課の老職員に聞くと、不機嫌な声で「当たり前だ、判らないように作ってあるのだ」という返事だった。後日、完全な粉飾決算であることが判った。
 下元は、コチア青年に関しても、中途半端なままであった。
 コチア青年の世話役をしていた山中弘移民課長は、彼らが乗った船がサントスの岸壁に着く度に出迎え、船に乗り込み「君たちは、コチアを受け継ぎ、発展させるために来た」と鼓舞した。
 ということは、下元はコチア青年導入の目的を、ある程度、山中に話していたことになる。山中の鼓舞を受けた青年たちは「組合の後継者育成」が自分たちが導入された目的であると思った。
 しかし下元と青年の接触は極めて少なかった。青年たちがサントスに着いた後、組合発祥の地モイーニョ・ヴェーリョで、話を聞いただけ…という人が殆どである。それも1955年から57年までの渡航者で、彼の没後に来た青年たちは、会ってもいない。
 従って殆どの青年が、下元の人格的影響を受けることはなかった。
 戦前の産青連の場合は、すでに記した様に、下元は各地を回って青年たちに接触、新社会建設論を壇上から説き来たり説き去り、座談会で諄々と語り聞かせた。青年たちは時の経つのを忘れて聞き入り、感動し、夢を抱いた。下元の人間的魅力に吸い込まれた。だから彼らは燃え上り、行動したのである。
 コチア青年についても、下元は、いずれ時期を見て、それをするつもりであったろう。慎重を期していたのかもしれない。青年をよく見極めてから…と。
 下元は終戦直後の騒乱の中で、信念派の産青連の盟友への対処策を誤り、組合へ呼び戻すことに失敗している。
 筆者は、かつてある元職員に「何故、下元さんはコチア青年導入の真の目的を明確にしなかったのだろうか」と訊ねたことがある。返事は「どういう質の青年が来るか判らなかったからだ」であった。
 そういうことで、これもやり残した。
 そのコチア青年が入り始めてから――繰り返しになるが――彼らを雇用した組合員の出荷量は驚くほど伸びた。組合全体でもそうであった。以後も含め、彼らは戦後のコチアの生産活動の主要部分を担った。
 しかし役員人事は、戦前移民から二世への流れが強くなって行った。志あるコチア青年の組合離れが絶えることなく続いた。
 青年の経営への参画は、1994年、組合の歴史が終わるまで極めて微々たるものであった。
 産青連の場合は認識派の盟友たちが戦後、役員陣に常に名を連ねた。無論、下元人事であった。コチア青年の場合、その候補たり得る年頃になった時は、下元は居なかった。(つづく)