下元健吉の死後も、コチア産組は拡大を続けた。
特に1960年代後半からの連邦政府の農業奨励策で、上昇気流に乗った。恩典付き融資で、組合員は営農規模を広めた。大型機械を導入、穀物生産に乗り出した。組合は1970年代、セラードを初め開発前線を各地に築いた。
一方で、農産物の加工に手を拡げ、80年代に入ると紡績工場まで建設するという勢いだった。
1987年、創立60周年には、組合員は1万4千家族、職員は1万人に達していた。
組合員の所在地は9州、90地域に広まっていた。
事業所は82カ所を数えた(1事業所で2地域を担当した処もある)。
他に出荷物の保管・流通・販売用の各種施設、営農資材・生活用品の生産・購買用の各種施設などが160カ所、子会社7、関係団体4という具合だった。
残光
組合員の生活は、昔を思えば、驚くほど豊かになっていた。
彼らは、往時は土まみれになって働き、サッペ葺き泥壁の小屋に住み、ランプ生活をしていた。娯楽といえば、偶に巡回してくるシネマを観に出かける程度であった。
それが仕事は支配人に任せ、緑の芝生、白壁、赤い屋根瓦の文化住宅に住み、シネマ館に行く必要もなく家でソファーに寝転がってビデオを見、ステレオで音楽を聴き、高級車を乗り回し、気軽に日本へ出かけたりする…そういう組合員が珍しくなくなっていた。
そこまで行かなくとも、それに準ずる生活が組合員の間で普通になっていた。
下元の描いた新社会が出現しつつあった。
コチア産組理事長(後半、会長と改称)井上ゼルヴァジオ忠志は、「自分の使命は、下元健吉の構想を実現すること」と確信していた。
従って、その死の数年後1960年代始め、組合病院の建設に着手した。建設は紆余曲折を経て、遅延を重ねたが、1969年、北パラナの霜害の影響で、完成直前に中止された。
が、代わりに、それ以前から在った診療所を充実、小病院ていどのものを作った。
教育では1990年代、片山和郎会長時代、農業高校を開設した。これは時期的に不適切であったが…。
成果はともかく、下元構想の完成を目指して、コチア産組が動いていたことは確かである。
古参の組合員の間では“親爺”は没後も生き続けた。親爺の喋り方の真似が大流行、長く続いた。ピニェイロスの組合本部の近くのボテコでは、夕方になると、彼らが一杯傾けながら「ヴォッセ」を日本語の「お前」に似たニュアンスで連発していた。
親爺がこの「ヴォッセ」をよく使っていたという。1960年代のことであるが、筆者は「ヴォッセ」の連発を聞きながら、一代の傑物の残光を感じたものである。
しかしながらコチア産組には、やがて最期が来た。1980年代、ブラジル経済が大破局に突入する中、その渦潮に巻き込まれて行ったのである。(つづく)