人物は底をついた!
以上、下元健吉の生涯と事業を概観した。
それを終えた後、強烈な光を発しつつ、筆者の心に残ったのは、その志、気骨、創造心、度胸、闘志…である。
日系の血の継承者が、彼に学ぶものがあるとすれば、このスピリットであろう。
話は一寸それるが、30年ほど前(1989年)、当時、南米銀行の会長であった橘富士雄が「コロニアでも日本でも、人物は底をついた」という意味の短文を、ある書物の中で書いていた。
これを読んだ時、筆者は内心「アッ!」と思った。全く同じことを考えていたからである。他にもそう感じた読者が多かったのではあるまいか。
橘の言わんとしたことは、筆者の解釈では、次の様な点であろう。
「現在、日系人の中からは数多くの優秀な人材が出て、各界で活躍をしている。が、あらゆる分野で分極化、専門化が進み、競争は激化している。ために、その人材たちも自分の守備範囲だけを守るのが精一杯である。他を顧る余裕はない。結果として潤いが失われた、乾いた砂漠のような社会風土が現出しつつある。加えて人間が卑小化、小粒化している。
指導者としての器量を備えた人物は底をついている。コロニアでも日本でもそうである」
この橘がかつて「傑物」と評したのが下元健吉である。1987年、コチア産組60周年の折「コチアの今日あるは、まず下元健吉という傑物が居たからだ」とある雑誌の取材にコメントしている。
下元はすでに触れた様に、終戦直後、南銀の宮坂国人に鋭すぎる一言を吐いた。その頃、南銀は再建中であり、橘は若手行員の一人であった。南銀がピニェイロスのコチア産組本部の傍に営業用の拠点を置き、橘が挨拶に行った。すると下元は罵声を浴びせたという。
結局、コチアは南銀とは絶交状態となり、それは1994年の解散まで続いた。
その南銀の橘ですら、下元をこう評価していたのである。やはり本物の傑物、指導者であったのだろう。
筆者が本稿を記しているのは2019年である。下元の死から62年が過ぎている。が、毎年、その命日には組合関係物故者の慰霊祭が催されている。今年も遺族、旧職員、コチア青年らの手により執り行われた。
組合は消えたが、下元健吉の残光は未だ消えてはいない。消えぬ間に、彼のスピリットが新日系コミュニティの構築者の間で蘇ることを期待したい。(終)
◆参考文献=『コチア産業組合30年の歩み』『農業と協同、下元健吉追悼號』『下元健吉・人と足跡』『コチア産業組合中央会60年の歩み』ほか。