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特別寄稿=サンパウロ市/羽田=コロナ禍でどう変わる?=空港や機中での過ごし方=金剛仙太郎=(上)

 金剛仙太郎さん(埼玉県出身、43歳)は10年前、ブラジル日本交流協会生として本紙で記者を務めた後、当地の企業で働いて永住権をえて、外国人女性と結婚して住み着いた。しかし諸所の事情からコロナ禍を機に、日本への永住帰国を決意した。まずは地盤が固まるまで、妻子をサンパウロに置き、単身で5月18日に帰国した。クアレンテナ(検疫)の真っ最中におけるグァルーリョス国際空港の手続き、ルフトハンザ機中の様子、全日空機中の待遇、羽田空港での検疫の体験談などを執筆してもらった。2回に分けて掲載する。(編集部)

グァルーリョス空港で距離を取って搭乗待ち

 今まででもっとも不安な気持ちで、日本行きのフライトを待つ日々でした。
 合計10年間のブラジル生活にピリオドを打ち、生まれ育った日本へ帰る決断をしたのが2月中旬。
 ブラジルのみならず、世界中でコロナウィルスの状況がひどくなるにつれて、日本行きが刻々と近づいて来た。それに伴い、私の心も今後、ブラジルでの状況がどうなっていくかの不安、また、将来の自分や家族に対しての漠然とした形にならない恐怖が、頭の中を占めるようになっていきました。
 サンパウロで出会った妻と乳飲み子を抱えながら、いつ終わるとも知れないリモートワーク(自宅での仕事)にも気持ちが入らず、自ずから生活の中心は家族といかにして生きながらえるかに変わっていきました。
 真っ先に優先順の筆頭に取って代わったのは、「1歳3カ月になる娘を如何にして守るか」ということ。SUSで受けられる予防接種の類は幸いなことに、主だったものは接種し終えていた。これから日本ではあまり必要とされない黄熱病やブラジル特有なものは全てパス、毎月通っている小児科医への定期検診もやむなく中止、なるべく公衆の場には娘を連れていかないようにした。
 大事に至らない小さな病気よりも、病院へ行ってコロナにかかるリスクの方が高いと判断したからだ。見えない敵だからこそ恐さが先に立ち、結局、娘は緊急事態宣言が出されてから今までの、一歩も外へ出ていない。
 家族との衝突もこの2カ月で大幅に増えた。四六時中、同じ空間で過ごし、行き場の無い不安と恐怖におののきながら過ごしているからこそ、自分を守るので精一杯、とても妻のようなパートナーであっても気遣う余裕すら無くしてしまっていた自分に愕然とした時は何度もあった。
 些細なことで、普段なら何の気にも留めないようなことが言い争いの発端になってしまう。それでもお互いに逃げ場の無い状況だけに、言い争いもあまり大きくならずに時間に解決してもらうという時期が続いた。

グァルーリョス空港。距離を取って搭乗待ちをする乗客たち

 なるべくなら仲良く思いやって過ごしたい、それが本音だが、そんな普段から出来ていたことが出来なくなるほど、追いつめられていた。
 5月18日の出発まで1週間を切ると、突然思い出したようにやるべきこと、やり残したことが次々と出て来て、家族と最後の時間を惜しむことさえ忘れてしまいがちになるほどであった。
 それは主にお世話になった人への挨拶だとか、買い忘れていたものだとか、日用品をガレッジセールで販売することだったり、それほどブラジルで多くの人に支えられ、そして生活の根っこにまでブラジルが染み付いていた証拠だった。
 だが同時に、家族とのしばしの別れも刻一刻と近づいていることも頭の片隅に常に感じ続けていたのも、不安を払拭するための最後のラッシュとも言うべき行動に表れていたのかもしれない。

5月18日出発当日、ルフトハンザ航空

 そしていよいよ迎えた出発日当日、家族3人での最後の日。こんな日に限って、2月に目の手術をした妻の定期検診。結構重たい症状だったため、不可欠なものだったので私が娘の面倒を見ている間に妻は病院へ。最後にプレゼントされた、束の間の娘との時間。
 元気いっぱい、椅子の上から落ちんばかりに暴れる娘への、いつもは少々面倒くさく感じる食事の時間も、しばらく会えないと思うと愛おしい時間に変わった。
 自宅を出るのは14時と決めていたにも関わらず、既に時計は正午を指し、それでもまだ妻は帰ってこない。この10年間、どれだけ予定通り、という言葉とは無縁の生活を送って来て少しは耐性が出来ていたにも関わらず、この日だけはそんなブラジルらしさにも久々にいらだちを感じてしまうほど、妻の帰りが待ち遠しかった。
 そして全てを計ったように妻が帰宅。コロナ対策で我が家の習慣となった外出後のシャワーを妻が浴びている間に、妻が買って来た買い出し品への最後の消毒。潔癖症を自負している私がいなくなったら妻は同じことをやってくれるか、とキリの無い心配をしたり、かといって気にしても仕方ないという諦めの境地になったりと、いろんな感情が入り交じりながらの最後のお別れだった。
 娘が生まれたとき以来の涙が自然と出て来て、寂しくなる前に玄関の戸を閉め、妻の友人の車で空港へと向かった。
 5月18日ルフトハンザ航空、サンパウロ発フランクフルト行き。ブラジルへの郷愁とこれから始まる日本での生活への不安との板挟みになりながら、外出自粛中からか、あっという間に到着した。
 営業時代、幾度と無く通ったグァルーリョス空港までの道中では懐かしむ間もなかった。10年前であれば最後の一服、と言う儀式が待っていたのだが、8年前の結婚を機にぱたっと止めた。家族はもちろんだが、思い出や経験など、色々なことブラジルに置いていくような気分で空港の玄関をくぐった。

カウンターでもらった最後のプレゼント

 ルフトハンザのカウンターに行くと既に数名並んでいる。3時間前に到着してこんな状況だから、恐らく誰もいないだろうな、と想像していたのだが、こんな状況でも出国する人はいる。
 幸い、日本行きのフライトもわずかではあるが運行を続けてくれている。2つの大きなスーツケースと子供の服をたっぷり詰めた衣装ケース、それに常に寄り添ってくれていた大切な書籍、必需品であるアルコールなどを含めたキャリー2個と、自分の背の高さにまで届かんばかりに積まれたカートと一緒にチェックインした。
 この時ばかりは頭の中は一体どれくらいの追加料金が掛かるのだろうという、お財布の中身との相談でいっぱいだった。ここまで来た以上、持ち帰る訳にもいかないし、場所も無い。選択肢は1つ、日本へ運ぶことだ。ここで妙案を思いついた。
 ブラジルで身につけた処世術、良くも悪くもこれが無いとこの国では生きていけない。ここで使ってこそ集大成だ、と根拠の無い自信と機会を恵まれた嬉しさとの感情を抱きながら自身の置かれた環境、妻子を残して10年間住んだ大好きなブラジルを離れなければいけないこと、日本で不安な生活が待っていること、などなど、黙々と作業を進めるカウンターの職員にとくとくと話し続けた。
 余談だが、この職員と話していると、ルフトハンザ航空なので乗客のほとんどがドイツ人かと思いきや、意外な言葉が返って来た。大半がドイツに住むブラジル人だという。ブラジルでのコロナの状況が悪化している状況を判断して、居を構えるドイツに帰る人たちだという。それぞれに人生があるのだな、と感じざるを得なかった。
 さて、問題の山高く積まれたスーツケースの行方だが、無事に追加料金も無く、何事も無かったように職員の方は「スーツケースとキャリーケース、合計4つ、羽田空港までお届けします」と。
 私の祈りか泣き落としが通じたのか、それ以上は何も言わず、そして私も語りかけず、親指をグッと立てて搭乗口へ向かったのでした。ドイツの航空会社とはいえ、職員はブラジルの人。最後の最後で心に響く、大きな大きなブラジルらしいプレゼントをいただいたな、と温かな気持ちになりました。
 その後はX線の検査前に非接触のデバイスにて、防護服を来た検疫官から額の体温チェック。これをパスしないとそもそも搭乗できない。36度!と合格点をいただきゲートへ。
 その後の入国、イミグレーションも通常通り。スターアライアンス、ワンワールド、アメックスなどのラウンジは規模を縮小して営業中。ただ、ビュッフェ形式の食べ物はなく、封をされたペットボトル、缶ジュース、缶ビール、ポン・デ・ケージョなどの軽食のみ。飲み物も含め、全ての注文を職員がアテンドしており、ペットボトル1本でさえ自分で選ぶことは出来なかった。
 搭乗口のあるフロアではカフェやスタバは縮小営業していたが、搭乗前の便もあり、ざっと見ても200人ほどは乗客で溢れ返っていた。緊急事態宣言下で最近、人ごみから縁の遠い生活を送っていたせいか、これだけの人を一度に見たのも久しぶりで、改めてこの状況が異常なことだと実感せざるを得なかった。

いよいよ、機内に

ガラガラ…。フランクフルト発羽田行の全日空機の様子

 色々なことを考えてたり実況中継のために写真や動画などを撮っているうちに、あっという間に搭乗時刻に。エコノミーの搭乗率は50%くらい。事前に座席指定をするためにサイトで座席を確認していたのだが、3列シートのほぼ全ての真ん中の席だけが埋まっており、衛生上の配慮がされているのが分かる。
 乗客も乗員も全員マスク着用、サンパウロ州では既に公衆の場でのマスクの着用は義務づけられていた段階だったので、特に違和感を受けなくなっていた。1カ月前までは街中ではまばらな着用率だったので国を挙げての変化には驚きました。
 また、このような状況下で色々な人が機内移動での注意点をブログなどで発信していてくれたお陰で、やることは分かっていました。100mlまで持ち込めるアルコールジェルを少しずつ、かつ必要量を取りながらシートベルト、タッチスクリーン、肘掛けなどを丹念に消毒。
 少しでも他の場所に触れたらやり直し、のようなことを繰り返しながら、シートに落ち着いて座るまで小一時間、1つ1つの作業にも気が滅入ってくる。だけど必要な作業で気は抜けない。日本に着くまで見えない敵と戦うのは簡単ではないと覚悟を決めました。
 ドイツまでのフライトの12時間はあっという間で、食事は2回出されましたが、宗教的な理由による別オプションを除き、エコノミーでは一律の内容。飲み物はペットボトルの水のみ、毛布は支給されましたが、衛生状態を確認する術が無いため、持参した使い慣れたタオルケットを使いました。
 そうこうするうちに経由地であるフランクフルトに到着。縮こまった身体を伸ばしたい衝動に駆られながらも整列降車(乗客をグループ分けして順に降ろす)のため、30分ほど機内で待機する。1つ1つの対応に通常との違いを感じました。

無事に羽田空港にでPCR検査を受け、結果は陰性。これは滞在歴証明書

 フランクフルトはルフトハンザのハブ空港とは思えない程閑散としており、開いている店舗はマクドナルド(縮小営業)と小さなスタンドのみ、免税店すら開いておらず、グァルーリョス空港との違いを感じた。
 全日空便の搭乗口へ歩いていると、中国行きの列に出くわす。テレビで観たような防護服に身をまとった人たちも多数いて、ヨーロッパでのコロナ蔓延の現実、戦い抜いて来た様子を図らずも垣間みることとなった。
 搭乗口に到着すると見慣れた顔立ちの人たちが数名、羽田行きの便を待っていた。客室乗務員も搭乗前のミーティングを行っており、俄然日本が近づいた瞬間だった。
 ここまで来たら私の中ではほとんど日本に着いたようなもので、かなり安堵した心持ちだったことを覚えている。ただ、ここでも外国人の顔立ちの方も数名おり、私のようにそれぞれに、この時期に移動せざるを得ない事情があるのだな、と一人妄想に耽っているうちに搭乗時間が近づいて来た。(つづく)