大谷陽子(島根県、35)。2018年に学習塾を辞職し、ブラジル日本交流協会(http://anbi2009.org/)の研修制度に参加。研修先は二宮法律事務所。
2018年4月、ネットでニュースを見ていた私の目に、きらびやかなリオのカーニバルの写真が飛び込んできた。その記事はブラジル日本交流協会で研修をした人の体験談だった。それがブラニチを知るきっかけとなった。
当時、私の住んでいた島根県には日本に働きに来たブラジル人が急増していた時期で、私にもブラジル人の友達ができた。明るくてよく笑い、とても楽しい人。一方で、道を歩いている時に突然踊りだしたり、その文化にもびっくりしてしまうことが多かった。
彼らが日本で暮らすのは大変だ。日本語しかない街の中で、飲食店のメニューが文字だけで理解できなかったり、病院に行きにくかったり。何か手伝えないかと思うと同時に、そもそも彼らはどんなところで暮らしていたのだろう、その環境を体感してみたいと思ったことからブラジルに行く機会を伺っていた。そんなときに目にしたのが先ほどの記事だった。
参加を決意し、約半年間の研修を終え、噂に聞く治安の悪さに怯えながらブラジルに渡った。
研修先はサンパウロ市内にある日系の法律事務所。ポルトガル語はあいさつ程度しかできなかったのに、日本語・ポルトガル語の翻訳をすることになった。弁護士とクライアント間のメール、特許申請など企業に関する書類や、戸籍など個人に関する書類を翻訳した。
一語一語辞書で確認して訳す。初めはたった3行の文章でも頭が爆発しそうになったが、翻訳を担当している先輩に根気よくチェックしてもらったおかげで、少しずつ理解できるようになった。
研修は月曜から金曜の9時から18時まで。それ以外の時間は語学学校に行ったり、島根県人会の行事に参加したり、研修時間内でも興味があるものがあれば参加させてもらっていた。
ブラジルに行く前は学習塾で働いていたことからデカセギ子弟の教育にも興味があり、ブラジルの学校見学もさせてもらった。何かをやりたい!と声をあげると、周りの人がこれでもかと協力してくれた。そんな環境があった。
ブラジルに行く前は、見聞を広げて早く日本に帰ろうと思っていた。帰りたくなるかもしれないという不安もあった。しかし、いざ住んでみると日本に対する郷愁の念を感じることは一度たりともなかった。日本語が使われていたり、日本の物が売られていたり、日本食だって身近にあったからだろう。むしろ帰国日が近づくにつれ欝々とした気持ちになっていった。
それよりも、私が一番救われたのは、ブラジルの人たちの温かさだった。友達になった人たちはもちろん、知らない人たちですら温かかった。
例えば東京でそのへんの人にためらいもなく道を聞けるだろうか。あの人なら優しそうだから教えてくれるかな、なんて断られる可能性を考えながら人を選ぶのではないだろうか。
しかし、ブラジルの人たちは私みたいな外国人が話しかけても嫌な顔一つせず、何とか助けてくれようとする。教えてくれた情報が正しいとは限らないのが、それがまた「醍醐味」でもあった。
ブラジルに興味関心がある人はもちろん、日本社会で息苦しさを感じている人に、ぜひブラジルで1年過ごしてほしい。留学で滞在するよりもぐっとブラジル社会の中に入ることで、数カ月や半年では見えないものが見えてくるはずだ。
思い通りにならないことや試練はたくさんあるが、温かく受け入れてくれるブラジルの人たちの中で「自分は自分でいいんだ」と思えるようになるのではないだろうか。
先日帰国し、今は仕事を探している。地元でブラジル人のサポートに関わる仕事に就くこと、そして近年中に何らかの形でブラジルに戻ることが直近の目標だ。ブラニチOBさんたちが言っていた「ブラジルに恩返しをしたい」という気持ちがなんとなくわかってきた。