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知っておきたい日本の歴史(1)=徳力啓三

 この小冊子は、文部科学省が平成28年度(2016年)に承認した中学生用の日本の歴史をブラジル語に翻訳するために作った要約版です。
 日本の歴史は長くて複雑ですので、ブラジルに住む人々にとって、最小限知っておいて欲しい史実のみをコンパクトにまとめました。
 大東亜戦争の戦勝国アメリカは、「日本は戦争を仕掛けた悪い国である」とし、日本の歴史をそれに合わせて書きかえました。
 戦後70年という年月が過ぎたのに日本の歴史学者はそれを直そうともせずにいます。13年前、第1次安倍内閣において新教育基本法が制定され、歴史の見直しが始まったにも関わらず、まだ一般国民に浸透するに至っていません。
 学校教育の中では、教える側の先生方が、戦後の教育の中でしっかりした勉強をする機会がなかったため、新しく作られている教科書に対して違和感或いは嫌悪観を抱いているのでしょう。
 教科書選びは、日教組が100%の組織力を誇った時代から教師の手にあり、新教科書の編纂が進んでいるとはいえ、その普及率は 非常に低く1%前後と言われており、遅遅として進んでいません。
 ましてや、学校を出て一旦一般市民として働き出したら、歴史などを勉強する機会はまずありません。
 1990年、ほぼ30年ほど前から、日本の歴史は世界一古い歴史を持っていることが解ってきました。
 世界の4大文明は5千年から6千年前とされていますが、日本の初期縄文時代に属する遺跡から掘り出された土器などから、日本文明は1万6500年前までさかのぼれると言われています。
 これらの事実を学べば、新しき日本人は、日本国の持つ歴史の凄さが解り、きっと誇りを取り戻すでしょう。
 今、ブラジルで日本語の本を読める人は、極少数です。この小冊子を読めば、比較的少ない時間で大雑把に日本の歴史がつかめると思います。
 物足りない方は、「新しい歴史教科書をつくる会」によって作られた「2016 年版中学生向けネット公開版」(出版社は自由社、https://www.nextgen-textbook.org/app/download/10000721371/自由社歴史教科書ネット公開版.pdf?t=1510763793)を参照して下さい。
 全283頁もあり、年表、カラー写真や統計など沢山載っています。
 この小冊子を読まれ、日本の本当の歴史を改めて知り、祖国日本の現在の姿、そして将来のことなどを考える参考にして頂けたら幸いです。

ブラジル日本会議 ・ 前理事長  徳力啓三


第1章 古代までの日本=(旧石器時代・縄文・弥生・飛鳥・奈良・平安時代)

 第 1 節 文明のあけぼの

  01―日本人は何処からきたか

 

史跡・岩宿遺跡(photo: Qurren (talk)Taken with Canon IXY 430F (Digital IXUS 245 HS)

 人類は約700万年前、猿人と呼ばれる最古の人類がアフリカ大陸で誕生、二足歩行し、あいた両手で石器を使用したと言われている。
 約240万年前には、原人が登場し、火を使い毛皮をまとって寒冷なヨーロッパやアジアへ進出していったが、絶滅したと考えられる。
 約20万年前、現代人の直接の祖先である新人(ホモ・サピエンス)がアフリカで誕生した。ホモ・サピエンスは生物学で種を示すための学名で「智恵のある人」を意味する。
 新人のうち、アフリカに留まった人々はネグロイド(黒色人種)となり、その一部は、約10万年前にアフリカを出て、ユーラシア大陸に進出した人々で、環境になじんでコーカソイド(白色人種)となり、ヨーロッパ人の祖先となった。
 東にむかってアジアに進出した人々はモンゴロイド(黄色人種)となり、アジア人の祖先となった。アジア人の一部は南北アメリカ大陸まで広がっていった。
 人類は高い知能を獲得し、意思を伝えあう言葉
を発達させた。新人は精巧な道具を作り、集団で狩りや採集の生活を営むようになった。
 狩りの成功を祈って描いた動物の絵や作物の実りを願って描いた女性像が、今も世界中の洞窟などに遺されている。人類は芸術や信仰を生み出す精神世界を有するようになった。
 約260万年前、地球は氷河期と呼ばれる寒冷な時期があった。今より10度も気温の低い時期が繰り返し襲ってきた。北方では地表が氷河におおわれ、日本周辺の海面は今より100mも低く、日本列島は大陸と地続きとなっていた。
 日本列島は氷河時代にも、氷に覆われることなく、草原には植物が茂っており、マンモスやナウマン象、オオツノジカなど、大型動物が地つづきの大陸から渡ってきていた。それらの動物を追ってきた人々が、数万年前より日本列島に住みつくようになった。
 日本の旧石器時代には、人々は集団で獲物を湿地などに追い込み、石や槍でしとめた。長野県の野尻湖からはナウマン象の牙やオオツノジカの角が石器 ・ 骨角器 ・ 木器などの道具と共に発見されている。
 このように、打製石器を使って狩猟や採集をして暮らした時代を世界の考古学者たちは旧石器時代とよんでいる。今から約60年前までは、日本には旧石器時代はなかったと考えられていたが、この通説を変えたのは、相澤忠洋による岩宿遺跡の発見だった。これによって、私達日本人の祖先は約3万年前から日本列島で生活していたことが分かった。

《補講》 岩宿遺跡を発見した相澤忠洋

『相沢忠洋―「岩宿」の発見 幻の旧石器をもとめて 〈人間の記録 80〉』(相沢忠洋著、日本図書センター、1998年)

 無名の青年研究家による大発見で、日本の歴史は数万年もさかのぼった。
 「日本の文化は、縄文文化をもって最古とする」。これが明治以来日本の考古学の常識でした。長い間発掘調査は、黒土の層が出てくればそれで終わりとなっていました。
 赤土とは関東ローム層とよばれる火山灰が堆積した地層です。一万数千年以上前の日本は、火山灰が降り注ぎ、動物はおろか草木も生えない死の世界だと考えられていたのです。そのため「日本には旧石器時代はない」と長く信じられてきたのです。
 この常識をくつがえしたのは、相澤忠洋という無名の考古学研究家でした。相澤さんは1926年生まれ、少年時代より寂しい子でした。
 そんなある日、拾い集めた土器を大人に見せ、何に使ったのかたずねました。
 「大昔、お父さんが狩りをし、お母さんがこのような焼き物をつくり、夜になるといろりの火を囲んで一家 団欒をした。これはその跡から出てきたものなんだよ」。
 相澤少年はその「一家団欒」という言葉を生涯忘れませんでした。相澤さんは11歳の時から働きに出ました。夜間の学校に行き懸命に勉強しました。仕事がない日は博物館に行って、こつこつと考古学を学びました。そして「いつごろから日本人は日本に住んでいるのか」を知ろうとしました。
 戦争が終った1946年群馬県桐生市に移り、遺跡の発掘を始めました。笠懸村の切通しに関東ローム層の地層が露出した崖の中から、地元では産出しない黒曜石の石片を数点発見し、旧石器文化の痕跡について確かな手がかりを掴んだのです。そして1949年ついに完全な形の石器を発見したのです。
 何処の大学の先生方も取り上げてくれませんでしたが、やがて調査チームを組み、相沢さんが案内したところから別の石器が見つかり、日本の歴史は一挙に数万年前までさかのぼりました。相沢さんの名前は取り上げられませんでしたが、ひたすら発掘を続け、多くの成果をあげました。
 その後日本全土で、1万箇所以上の旧石器時代の遺跡が見つかっています。1967年第1回吉川英治賞を受賞、その功績は今も輝きを放っています。1989年63歳で生涯を終えました。


02―自然の恵みと縄文文化

 

三内丸山遺跡(663highland/CC BY-SA)

 約1万数千年前に氷河時代が終わると、海水面が上がって大陸から分離し、今の日本の姿があらわれた。気温が上昇し、暖流が勢力を増して日本海に流れ込んだので、針葉樹の多かった日本列島に広葉樹が増え、やがて山々が更に豊かな植物採取の場になった。
 縄文時代は今より1万数千年前から紀元前4世紀ごろまでの1万2千~3千年位をいい、この頃の文化を縄文文化という。
 気候の変化にともない、ナウマン象などの大型動物は絶滅し、かわってシカ、イノシシ、ウサギなどの中・小動物が増えた。これらのすばしこい動物を捕らえるために、弓矢が発明され、イヌを猟犬としてつかうようになった。
 また海水面が上昇したので、海が内陸まで深く入りこみ(縄文海進)、カツオ、タイ、貝類など豊かな海の幸をもたらした。
 1万数千年前に日本列島の人々は、すでに土器を作り始めていた。これは世界で最古の土器の一つである。この時代の土器は、表面に縄目のついた模様が多いことから縄文土器と呼ばれている。
 それらの多くは深い鉢で、人々はこの土器で煮炊きなどを行い、あく抜きなどの技術を発達させた。当時の住まいは、地面を掘って床を作り、柱を立てて、草ぶきの屋根をかけた竪穴住居であった。

大型竪穴式住居の内部(663highland)

 男たちは狩りと漁労に出かけ、女たちは植物の採取に精をだし、年寄りたちは火のそばで煮炊きの番をするといった生活の場面が想像される。
 従来、縄文時代は狩猟・採集にたよる不安定な移動生活で、貧しく原始的な生活をしていたと考えられていた。
 ところが青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやま)から、約5500年前の大きな定住集落の跡が見つかり、縄文時代のイメージを大きく変えた。この地では1500年もの間、定住生活が営まれ、最盛期には500人ほどの人々がいたと考えられる。この遺跡の集落では、すでに簡単な農耕が行われ、エゴマ、ヒョウタン、マメ、クリなどが栽培されていた。縄文時代には、すでに稲作が行われていた。
 しかしそれは陸稲栽培であり、規模も小さかった。当時の日本列島は食糧に恵まれていたので、大規模な農耕や牧畜が始まるにはいたらなかった。人々は自然の豊かな恵みに感謝し、また子孫を生み育てる女性をかたどった独特の土偶や漆塗りの装飾品などを作って祈りを捧げた。縄文時代は、平和で安定した社会がつづき、日本人のおだやかな性格と日本文化の基礎が育まれたと考えられる。

《資料》 縄文時代の色々な発掘物

1― 平底深鉢土器・底が細まっていて、煮炊きに用いた(長野県尖石縄文考古館蔵)
2― 青森県大平山元Ⅰ遺跡から発見された土器は炭素年代測定で1万7千年前とされた。
3― 2013年日英チームは1万5千年前の土器より世界最古の加熱調理をした痕跡を発見した。
4― 石皿(1万2千年前)・鹿児島県かこいの原遺跡で出土。木の実をすりつぶす道具。移動するには重すぎることから、定住生活をしていたと推定される。

三内丸山遺跡に展示されている翡翠製大珠。四方向から撮影 ( Large jade bead 縄文時代中期(約5,000~4,000年前、aomorikumaが撮影)

5― ヒスイの大珠・縄文時代に日本の各地で見つかっている。日本のヒスイは、硬玉と呼ばれ、鋼鉄より硬く、加工には高い技術が必要である。世界における古代のヒスイ文化圏は日本の縄文とマヤ文化のみであり、最古の例は日本の6千年前のものである。
 日本のヒスイの産地は新潟県の糸魚川のみだが、北海道から沖縄まで各地の遺跡で発見されている。即ち海路を利用した広域の交易ルートがあったと推定される。
6― 土偶・土で作られた人形・土偶は、子孫繁栄を願い、妊娠した女性をかたどっており、「縄文のビーナス」 と呼ばれている。(長野県・尖石縄文考古館所蔵)
7― 漆塗りの副葬品・北海道の函館より出土した、死者と一緒に埋葬した品々は、漆塗りとなっており、世界最古の漆塗り副葬品で、9千年前のものとされている。

高床式建物(663highland)