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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(2)

日本の始まりと世界の文明の黎明期

三内丸山遺跡で出土した土器の展示(岡﨑祐三さん撮影)

 日本で縄文時代に当たるおよそ1万2千~3千年前、世界各地で農耕や牧畜が行われるようになった。
 石の表面を磨いた磨製石器や土器などを使う新石器時代で、この時代にはまだ金属器は使われていなかった。やがてアフリカやアジアの大河の周辺では、灌漑が行われ、農業が発達した。それによって多くの人口が養われ、商工業も発達し、都市が生まれた。
 一方、青銅器や鉄器が使われるようになり、鉄器が普及すると農耕の生産性が高まった。
 多数の人々を動かす灌漑工事などを指揮する人が必要となり、指導者は人々から租税を徴収し、共同の事務を管理する人を置き、文字を使って記録した。
 また、暦を制定し、神を祭り、戦いを指揮し、人々の尊敬を集め、広い地域を統合していった。このように金属器、都市、文字などを備えた社会を文明社会と呼び、広い地域にわたる人々を統合し共同生活を行う仕組みをつくった。これを国家という。
 紀元前3500年、シュメール人によって建設されたメソポタミア文明は、階段状のピラミッドを持ち、くさび形文字や60進法を使用した都市国家をつくった。その文明が滅んだ後、バビロニア人があらたに王国を築いた。
 紀元前3千年にはナイル河流域にエジプト文明が発生し、高度な幾何学の知識を使ってピラミッドを建設、象形文字を使ってパピルス紙に記録を残した。
 紀元前2300年ごろ、インドのインダス河流域にインダス文明が発生し、計画的な都市を建設したが、やがてほろびた。北方からアーリア人が進出して、バラモン(神官)を最上位とするカースト(身分制度)を取り入れた社会を造った。
 紀元前6千年ごろ、中国には古代文明があった。黄河流域では農耕(麦作)や牧畜が行われ、長江流域では稲作を中心とした文明が始まっていた。やがて黄河流域で殷(いん)という王朝(紀元前2千年の中ごろ)が起こり、青銅器を祭器として使い、甲骨文字を使っていた。
 紀元前11世紀ごろ、殷が滅び、周の時代となると、鉄製の農具や兵器が使われるようになった。周の時代がおとろえると、国内は分裂し、その後、戦国時代が長くつづいた。
 戦乱の時代には、多くの思想家があらわれ、理想の政治や王のあり方を説いた。孔子(前551―前479・ 哲学 ・ 思想家)はその一人で、その教えは儒教とよばれた。紀元前3世紀ごろ、秦の始皇帝が始めて中国を統一し、皇帝を名のった。始皇帝は文字や貨幣を統一した。

宗教の成り立ち

 古代の人々は、山、森、海などあらゆるものに神(精霊)が宿っていると考えた(アニミズム)。
 彼らは、雷鳴や暴風を畏れ敬い、草木に注ぐ日光や、農耕期に降る雨に感謝を捧げた。これらの自然現象を神の業と思い、季節ごとの祭りには、感謝の心で祈った(自然崇拝)。
 また祖先の霊や村の長老が、日々の暮らしを見守ってくれ、平和で健康が続くように祈った(祖先崇拝)。
 このような自然への畏敬と祖先への感謝が、日本人が持つ宗教の始まりである。
 宗教は、日常の生活を超越した世界、とりわけ死後の世界についての理解や信仰から成りたっている。
 日本の神話、エジプト神話、ギリシャ神話、ゲルマン神話などには多くの神々が登場し、全ての民族が、多神教を信じていたと考えられる。多神教とは複数の神々を同時に崇拝の対象としている宗教のことである。
 一神教の神を民族神とする遊牧民であるヘブライ人は、地中海東岸のパレスチナに定住するようになった。
 しかしバビロニア王国に滅ぼされてしまい、多くの民は首都バビロンに強制移住させられた。紀元前6世紀頃に解放され、エルサレムに神殿を建設し、そこに唯一神を信仰するユダヤ教ができた。『旧約聖書』にはその教えが記録された。

ユダヤ教の聖地、嘆きの壁。訪れた人々が壁に触れて祈りをささげるため、人の背の高さの壁部分が黒ずんでいる(en:User:Chmouel/CC BY-SA)

 世界の3大宗教としては、紀元1世紀初頭、パレスチナの青年イエスが神の愛と許しを説いて、ユダヤ教の一部からキリスト(救世主)と崇められた。
 当時パレスチナを統治していたローマ帝国の総督はイエスを十字架刑に処した。イエスを救世主として信じる人々によって、キリスト教団が生まれた。
 迫害された信徒はパレスチナから離散し、熱心に布教したため、キリスト教はローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ全土に広がっていった。そして民族の枠を超えた世界宗教となっていった。

サールナート考古博物館のブッダ像(พระมหาเทวประภาส วชิรญาณเมธี (ผู้ถ่าย-ปล่อยสัญญาอนุญาตภาพให้นำไปใช้ได้เพื่อการศึกษาโดยอยู่ภา่ยใต้ cc-by-sa-3.0) ผู้สร้างสรรค์ผลงาน/ส่งข้อมูลเก็บในคลังข้อมูลเสรีวิกิมีเดียคอมมอนส์ – เทวประภาส มากคล้าย/CC BY-SA)

 一方、仏教はインドの地で紀元前6世紀ごろ、仏教の開祖である釈迦により創建された宗教である。釈迦は、人々がこの世の苦しみから解放される教えを説き、その教えは、インドから東南アジア、中国、日本などアジア諸国に広がっていった。
 アラビア半島で7世紀初頭に始まった、ムハンマドを開祖とするイスラム教は、たちまち西アジア地域を帝国にまとめあげ、イスラム文化は隆盛をきわめ、世界に広がった。
 イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教と同様に、唯一神(アラー)を信じ、その言葉をまとめた『コーラン』を経典としている。
 世界宗教となったキリスト教、仏教、イスラム教を世界の3大宗教という。世界宗教に対して、特定の民族や文化と結びついた宗教を民族宗教という。日本の神道やユダヤ教などがある。インドのヒンズー教は、信者の数では仏教を上回るが、民族宗教である。

弥生時代に広まった稲作

菜畑(なばたけ)遺跡の復元された水田(Pekachu/CC BY-SA)

 日本列島には、すでに縄文時代に大陸からイネがもたらされ、九州の菜畑(なばたけ)遺跡では紀元前500年ごろには灌漑用水をともなう水田稲作が行われていた跡が見つかっている。
 その後、稲作は西日本一帯にも広がり、海沿いに東北地方にまで達した。稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、人々が集まりムラ(村)ができた。人々は共同で作業し、大規模な水田をつくった。
 もみは直播で稲穂の摘み取りは、石包丁が用いられた。収穫された穂を乾燥させて納める高床式倉庫が建てられた。ムラでは、豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われた。
 弥生時代は、紀元前400年から紀元後300年の約700年を指すが、この時代には、青銅器や鉄器などの金属器も大陸から伝わり、国内でも生産が始まった。銅剣や銅矛は武器としてつくられたが、銅鏡や銅鐸などとともに祭りのための宝物として扱われるようになった。
 一方、鉄器は農具や武器として実用的に用いられた。原料の鉄は、中国地方でとれる砂鉄からとり、たたら製鉄の技術が発達した。
 この頃、弥生土器という茶褐色の新しい土器がつくられるようになった。黒褐色の縄文土器よりうすい土器で、つぼ、かめ、食器など様々な用途に使われ、稲作と共に全国に広がった。稲作水田栽培を中心とするこの当時の文化を弥生文化と呼ぶ。
 稲作によって食糧が豊かになると、ムラの人口はふえた。ムラどうしの交流が盛んになるとともに、水田や用水、収穫物をめぐる争いがおこり、ムラをまもるために周囲に濠をつくった。これを環濠集落という。
 ムラには共同作業を指揮し、祭りをとりしきる指導者があらわれ、争いの時にも大きな役割をはたした。やがていくつものムラが集まって、小さなクニ(国)が生まれた。これら小国の指導者(首長)は世襲の王となっていった。

淫らでなく、盗まず、争わない日本人

 弥生文化は紀元前4世紀頃から紀元3世紀頃の日本の姿をあらわしている。長い長い縄文文化のあと、金属器(青銅器や鉄器)の発達により、本州や九州方面で農耕社会が徐々にできていった。水稲耕作が広がり、経済生活が安定していった。
 農具の発展によって、石包丁で穂首刈りしていたのが、竪杵・木臼で脱穀できるようになり、鋤鍬が鉄製にかわり能率が良くなった。集団で生活する場として、ムラの周りを濠でめぐらす環濠集落をつくっていたことが、佐賀県の吉野ケ里遺跡や静岡県の登呂遺跡の発掘で分かっている。
 この時代の歴史的な資料は、古事記や日本書紀に記載されているもののほかは大陸文化の文献に僅かながら残っている資料から推察するしかない。
 弥生時代の初期、中国は秦朝の始皇帝により統一された。その時代の歴史書『漢書』には、紀元前後の日本について「倭人(日本人)が100あまりの小国をつくっている」と書かれている。
 『後漢書』の東夷伝(歴史書)には、1世紀中頃の弥生時代の様子が記録され、倭の奴国(なこく)の王が漢に使いを送り、皇帝が金印を与えたと記されている。
 3世紀になると魏・蜀・呉の3国の争いの時代となった。有名な歴史書『三国志』の一部には「魏志倭人伝」と呼ばれる部分があり、「倭の国には邪馬台国(やまたいこく)という大国があり、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた」とある。
 卑弥呼は神に仕え、祭りや占いによって政治を行い、不思議な力で民をよく治めていたという。
 倭人伝は、漢字2000文字ほどの記述であるが、3世紀前半の日本には、邪馬台国に関する記録があり、日本人の性格について、
1―その風俗淫ならず、2―盗みをしない、
3―争訟少なし、
と書かれている。


《補講》縄文こそ「和の文明」

三内丸山遺跡の大型竪穴式住居(復元、663highland)

 全てにおいて大規模な縄文の集落・三内(さんない)丸山遺跡発掘の衝撃・広い遺跡、整然と並んだ大きな建物、膨大な遺物と縄文の豊かな生活を営んでいた縄文人の生活が見えてきます。
 この集落は今から5500年前から4千年前頃まで1500年間も存在したのです。広さは約40ヘクタールもあり、集落には1千以上の住居跡があり、同時期に約100軒程度は使われていたと推定されています。
 また高床式倉庫跡と10軒の大型建物跡が確認されています。墓、盛り土、道路、貯蔵穴、ゴミ捨て場なども計画的に整然と配置されています。直径1・5メートルのクリの木を使った建物跡もみつかりました。

三内丸山遺跡の六本柱建物(復元、DoWhile/Public domain)

 再現してみると15メートルもの巨大高床式建造物となりました。その建物は夏至の太陽が真正面から昇るように設計されており、神殿として使われていたようです。
 縄文の人々が、太陽を崇拝(太陽信仰)した証と考えられています。
 また1万点以上の土器や1500点もの土偶、高い技術で作られた木製品や彩漆土器、衣類や裁縫針なども出土しました。
 硬いヒスイを使ったイヤリングやネックレス、かんざし、腰のかざり、ペンダントなども発掘されました。現代の私たちと変わらないほどのおしゃれな人間模様が見えてきます。
 この地に長い期間定住できた大きな要因は、季節を通じて安定した食料が得られたことです。人々はクリを大量に栽培して主食とし、他にイモ、エゴマ、ヒエ、ヒョウタンといった食糧を栽培しました。
 農耕のためには鋤や鍬など木製の農具や動物の骨で作った釣針を使って海の恵みである魚介類を獲りました。このように縄文の人々は自然に恵まれた豊かな生活を営んでいました。
 1万年以上にわたる縄文時代の大きな特徴は、遺跡から戦争の道具が出てこないことです。三内丸山遺跡では、動物を狩るための弓矢や槍はありましたが、人と人が戦う武器は見つかりませんでした。
 お互いに助け合う「和の社会」が維持され、精神的な豊かさを持ち合わせた社会であったようです。私達日本人の祖先である縄文人は、「和の文化」とも呼べるおだやかな社会を築いていたのです。


《資料》世界の宗教とは

 釈迦は紀元前560年ごろ、ヒマラヤ南麓の小国の王子として生まれた。城には4つの門があり、夫々の門のところで、病人、老人、死人、修業者を見て王子は衝撃を受ける。
 29歳の時、王子の身分を捨て、妻や子をすて、城を出て、どうしたら現世の苦しみから逃れられるかを求めて、修行の旅に出た。最初は断食など厳しい苦行を続けたが、何も得られないことに気づき菩提樹の木の下に座り、瞑想を続けた。
 そして人の苦しみを救うための悟りを開き、仏陀(悟りを開いた人)と呼ばれた。釈迦の教えは、極端を排する中道と、起きたことには必ず原因があるとする因果と言う考えを基本として、人生の苦しみから解放されるためには、煩悩の心(心を乱す悩み)を断ち切らねばならないとした。
 ユダヤ教の経典『旧約聖書』は唯一神エホバと古代ユダヤ人との契約で、キリスト教の経典『新約聖書』は、イエスが使徒と交わした言葉とイエスの行動が記された、神と人類との新しい契約の書とされる。またイスラム教は、『旧約・ 新約聖書』に『コーラン』を経典として加え、ムハンマドを「最後にして最高の預言者」としている。