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特別寄稿=「アメイジング・グレイス」の祈り=死んだら天国で黒人奴隷に詫たい=サンパウロ市ビラ・カロン在住 毛利律子

奴隷船の内部(Johann Moritz Rugendas/Public domain)

名曲に秘められた青年期の悲しい過ち

 思いがけない外出自粛の生活の中で、老いも若きも、パソコン、携帯電話などを使ったオンラインでの仕事や、SNS(ソーシャル・ネットワーキング)という手段でのつながりが一段と活発になった。ネット社会が育む新たな人間関係で、楽しめる娯楽になったと言えよう。
 遠く日本を離れ、高齢でブラジルに移住すると、なかなか新しい環境に馴染めず、さみしい思いをすることもあるが、思いがけない出会いもある。先日、あるきっかけで知り合ったサンパウロ市の勝谷ジュリアさんもその一人。ジュリアさんは深い思いやりの気持ちが伝わる、たくさんの動画、画像、情報を届けてくださり、いつも感謝しつつ楽しみに鑑賞しているところである。
 先日送られてきたビデオの一つに「アメイジング・グレイス」があった。世界的に有名な名曲の一つである。その曲を50カ国の人々が、それぞれの言葉で一節ずつをリレーして繋ぐというたいへん感動的な動画であった。
 この名曲を作詞したのは、18世紀のイギリスの宣教師である。詩が賛美歌として発表された当初、曲は無かった。しかし、すぐにアメリカ大陸に渡ったイギリス移民とともに、いろいろなメロディーで歌われるようになった。
 最終的に現在の曲に落ち着き、今ではアメリカを代表する曲となり、世界の名曲として歌い継がれている。一度聞いたら忘れられないほどの旋律の美しさは、どうやらアイルランド民謡の音律が影響しているらしい。
 それはペンタトニック・スケール(pentatonic scale)と呼ばれるもので、別名『5音音階』とも言い、日本の童謡や民謡、演歌、沖縄民謡の音階に通じているということである。哀愁と懐かしさを呼び起こす音階である。

作詞はイギリス人牧師
  ジョン・ニュートン

作詞者のジョン・ニュートン(Contemporary portrait/Public domain)

 「アメイジング・グレイス」は、賛美歌、スピリチュアル・ソングとして200年以上も世界で愛唱されている。この歌詞の作者はジョン・ニュートン(John Newton, 1725-1807)。当時、ヨーロッパ列強はアジア貿易での利権獲得を目指して東インド会社を設立し、海上貿易での覇権争いに明け暮れていた。
 ジョンの父親は、イギリス東インド会社の地中海貿易に携わる貿易船の船長で、母親は息子ジョンを深く愛し、幼い頃から聖書や賛美歌などを読み聞かせる敬虔な信仰心の持ち主であったが、肺結核で30歳の若さで亡くなった。ジョンが6歳の時であった。父親はその後すぐにイタリア人の若い娘と再婚し、ジョンは寂しい幼少期を過ごした。
 後に彼が宣教師の道を選んだのは、母の宗教的情操教育が大きく影響したのは間違いないであろう。
 父親の仕事の関係から船乗りになるが、それは西アフリカでの黒人奴隷売買の奴隷貿易船であった。奴隷を運ぶ航海中に何度も荒れ狂う海で死にかけて奇跡的に助かった。だが、突然の重病に襲われたことがきっかけとなり、船乗りの仕事を辞める。
 その後、母国イギリスのオルニーの教区の牧師となり、毎週の礼拝のために書き始めた賛美歌集を、詩人ウィリアム・クーパーとともに編纂する。この「オルニー賛美歌集」は、1779年、ジョン牧師が54歳の時に発表された。
 その中の一つの詩が「アメイジング・グレイス」であった。若き日の悔恨と回心、神の慈悲を讃嘆するこの敬虔な歌詞は、その当時人気のあったメロディーに合わせて様々な形で歌われた。
 歌詞の冒頭にある「若き日の悔恨と回心」とは、アフリカ黒人を人間と見なさず奴隷として売買する仕事に関わり、大儲けをしたこと。そのような仕事を続けている中で、大嵐で遭難しかけたが辛うじて一命をとりとめた。その時、沈みかけた船の中から見上げた天空に一条の光が差していた。
 それを「驚くべき=アメイジング、神の慈悲=グレイス」と捉えた彼は、下船を決意する。牧師の職を得てからは、独学で勉強した語学を活かして、多くの書物を翻訳・作詞して、賛美歌集を作った。
 日々のミサの中で深く祈ったことは「死んだら、天国で黒人奴隷たちに何としても詫びをしたい」という懺悔であったという。
 この詩の影響は後のイギリスにおける奴隷制度廃止運動などに広がっていく。
 やがてこの歌は、イギリス移民とともにアメリカに渡り、わずか10年後の1789年には、ニューヨーク、フィラデルフィア、ニュージャージーへと、次々と広がっていく。

メロディーは、アイルランド人の民謡の影響か

 さて「アメイジング・グレイス」のメロディーの源流がどこの国のものかについては諸説ある。だが、この歌詞が巡り会うべくして出遭った曲は、スコットランド民謡の典型として知られるペンタトニック・スケール(pentatonic scale)に基づいてメロディーが構成されていることから、古いスコットランド民謡ではないかといわれている。
 ペンタトニック・スケール(pentatonic scale)とは、別名『5音音階』とも言い、1オクターブの間に音程が5つしかないスケールの総称だ。
 「ペンタ」はギリシャ語で数字の「5」を表し、スコットランド民謡の他、沖縄民謡もこのペンタトニック・スケールに基づいて構成されている。
 日本の唱歌『蛍の光』は、原曲のスコットランド民謡『オールド・ラング・ザイン(サイン)Auld Lang Syne』が典型的なペンタトニック・スケールに則ったメロディーである。
 ちなみに、このペンタトニック・スケールに対応する音階として、日本では「ヨナ抜き音階」がある。
 明治時代にヨーロッパから新しい七音階が導入されたとき、その七音階にはそれぞれ「ヒフミヨイムナ」というカタカナが当てはめられ、その第4音の「ヨ」と第7音の「ナ」にあたる音を抜いて作られたのが「ヨナ抜き音階」と呼ばれる音階である。
 それは、西洋の音階になかなか馴染めなかった当時の日本人にも受け入れられやすい音階として、数多くの民謡・童謡に採用されたという流れである。
 専門的な解説をもとにより分かり易く説明すると、「ド=ヒ、レ=フ、ミ=ミ、ファ=ヨ、ソ=イ、ラ=ム、シ=ナ」の7音階から、(ファ=ヨ)(シ=ナ)を抜た5音階のことである。
 日本の国家「君が代」もこの音階で編曲されている。因みに「君が代」は、10世紀初頭、日本最初の勅撰和歌集の『古今和歌集』にある「読人知らず」の和歌で、作詞者は世界で最も古い人物といわれる。
 その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声に編曲。1930年には国歌として定着した。世界で最も短い国歌である
 さらに、この『5音音階』で二番目のレと、6番目のラを抜いた「ニロ抜き長音階は、沖縄の伝統音階「琉球音階」になる。よく知られた歌には、BEGINの「島人ぬ宝」、浦島太郎(桐谷健太)の「海の声」などがある。
 このように、『5音音階』の「ヨナ抜き音階」の長音階の場合、西洋音楽の影響のない明治以前には、日本民謡東北の童歌「どんじょこ・ふなっこ(唱歌の「どじょっこ・ふなっこ」は別)や、木曾節、稗搗き節、田原坂などが該当する。
演歌は現在でも「ヨナ抜き音階が主流で、「北国の春」、「夢追い酒」や、氷川きよしの「箱根八里の半次郎」。
 また、「リンゴ追分」、「りんとう峠」、「達者でナ」、「津軽平野」などの民謡調演歌には、「ニロ抜き短音階の曲もある。[ウィキペディア参照]。

移民の心の拠り所として広がった歌

 「アメイジング・グレイス」がアメリカ大陸の移民の心の拠り所として広がった時代は、日本ではちょうど江戸時代から明治時代への大転換期に当たる。
 アメリカの歴史を学べば学ぶほど、この国が如何に複雑であるかを実感する。
 歴史の流れを大雑把に言及することは語弊を招く恐れがあるが、敢えて簡略に、この歌が広がったアメリカ建国当時を辿ってみる。
 アメリカ新大陸植民地始まりの時代に「新しい国づくり」をするために渡ってきたのは、イギリス本国からの移民であった。
 ヨーロッパの旧体制は、国王の治める絶対君主制封建制度であった。民衆はその圧政を革命して倒し、世界大戦などを通して王国は解体され、王政から共和制に移行した。
 そのような時代背景から逃れて新大陸を目指した人々は、新たな建国に当たり、国王という特別な権威を作らず、国民主権の国造りをした。参加した人々は、アングロサクソンの白人で占められ、すでに独自の文化、宗教、技術経験、技能学問を持った人々の寄り集まりであった。
 1776年、イギリス本国から独立し、主権在民の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、アメリカ合衆国が誕生した。
 独立宣言ではイギリスの哲学者ジョン・ロックの提唱した理念が冒頭に掲げられた。それは、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という主旨である。
 白人によって建国されたアメリカでは当然「白人の論理」が優先されるが、経済的大発展の原動力となったのは、主にアフリカ人とその子孫(アフリカ系アメリカ人)、およびネイティブ・アメリカンの先住民族にも適用された「奴隷制度」の整備化であった(年季奉公労働者のプアーホワイト⦅貧乏白人⦆についてはここでは割愛する)。

ルイジアナ州バトンルージュの奴隷ピーター。1863年撮影。背中の傷は監督者によって笞打たれた結果。その後解放された。体力が回復するまでに2カ月を要した(Mathew Brady/Public domain)

 17世紀から19世紀にかけて、およそ1200万人のアフリカ黒人がアメリカ大陸に渡ったが、合衆国では1860年代の奴隷人口は400万人に達していた。
 アメリカは「自由平等、機会均等」の理念を掲げながら、大発展の富は黒人奴隷の労働の搾取によるという、二律背反を背負う国である。
 また、多様な人種を受け入れる「多様性」を重視して大国化したことが、同時に多くの利害因子が集まることになり、アメリカの多様性はより一層複雑になった。
 北部は、奴隷に頼らずとも機械文明の近代化による資本主義産業革命で大発展した。
 一方、南部の大規模綿花プランテーションの大農園主は北部に比べ、圧倒的多数の黒人奴隷を所有し、彼らを動産として働かさなければ、経済は成り立たなかった。農園主の貴族政治下での黒人奴隷の処遇は合法的に認められていて、それは過酷で非人間的なものであった。
 北部では、独立戦争の間にすでに奴隷制廃止に向けて動き始めた。建国時から、北部と南部は全く違うイデオロギーで対峙することになったのである。

歌の始まりは、日米の歴史の大転換期

南北戦争の様子(Excel23/CC0)

 1800年初期から運動は国全体に広がるが、南部白人の強い反発との対立が深刻化し、アメリカは史上初めて、国内における最大最悪の南北戦争に突入する。国を分断した戦争は、北部が勝利し、制度としての奴隷制が終焉するが、黒人差別・人種差別問題は現在でなお混沌として解決から程遠い。
 多人種によって形成されているアメリカ大国が抱える「恥」の側面である。
 南北戦争は同じ国民同士が戦う悲惨極まるものであったが、戦時下では多くの名曲も生まれた。日本に影響した曲も多数あるが、その一つ、「タロウさん(ゴンべさん)の赤ちゃんが風邪ひいた・・・」の元歌は、北軍戦士の行軍曲で、奴隷制度廃止論者のジョン・ブラウンを称える「リパブリック讃歌」の替え歌である。「リパブリック讃歌」はアメリカの第二の国歌とも呼ばれて愛唱されている。
 「アメイジング・グレイス」は北軍の兵士達に支給された讃美歌集にも収録され、アメリカ北部に定着し、やがて全国に広がっていった。
 ブラジルの奴隷制度廃止運動も、ちょうどこの時期に高まり、1888年5月13日、僅か2条から成る全奴隷解放令にイザベラ皇女が署名し、ブラジルにおける黒人奴隷制度の無補償の即時廃止が実現した。
 日本でいえば、江戸徳川幕府末期に当たり、60歳のマシュー・ペリーが1853年と54年、二度に亘り黒塗りの蒸気外輪船で来航した。欧米の産業革命の長時間作業による燃料にクジラの油が使われたが、この需要を満たすために捕鯨が活発に行われ、長期航海用の補給拠点となる寄港地を日本に求めたのも、目的の一つであった。
 ペリーは、「アジアの他の国とは違う、日本は非常に民度の高い天皇の国家」と認め、その国との交渉を進めるにあたり、日本に関する出版物を徹底的に読み、情報を集めたという。
 結果的に、全十二か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれ、幕末動乱の後、1868年、明治天皇の王政復古が発せられ、即位と改元により明治政府が始まる。
 アメリカ東部のマサチューセッツ州、コンコードは独立戦争の主戦場の一つであるが、市の移民資料館にはペリー艦隊の船員たちの記録が納められている。
 その中に、日本周辺の海が荒れたときには「アメイジング・グレイス」を合唱して、心を落ち着けたという記述が遺されていた。
 新コロナ禍で多少不自由を経験しているが、歴史を振り返ると、今はたいへんに恵まれた時代であることを改めて痛感する。最近は、ポスト・コロナの社会の在り方についての様々な意見、提案が報道されているが、人間は忘れるし、すぐ順応できる動物である。
 新コロナウィルス騒動は、現代人に大切なことを訓(おし)えてくれた。それらを肝に銘じて忘れないことが大切ではないだろうか、と思っている。