ブラジル初の新型コロナ感染者確認から早4カ月。ブラジルでは24日朝の時点で5万2788人、世界中では47万4609人という、大きな犠牲者が出ている。
外出自粛などで感染拡大が終息した国、拡大中の国、感染再燃中の国など、実情は各国各様だ。だが、どの国でも共通する事の一つは、従来は当たり前だった事が当たり前ではなくなった事だ。
家族が一堂に集い、人に会えばハグを交わす、何の不安もなくバスや地下鉄を使うなどが、限りなく尊いものである事に改めて気づかされる。
無論、夫婦揃って入院し、一緒に退院という例などもある。だが、入院中は面会禁止、死亡したらフタが密封された棺が渡され、通夜もなく埋葬となったり、生まれたばかりの子供に会う事もなく父親や母親が死亡するなど、コロナ禍による悲劇は無数だ。
コラム子が担当医に「献血したいが、2~3カ月中に手術が実現する可能性はあるか」に質問したことがキッカケとなり、コロナ禍で一旦中止されたはずの手術が急に実現しそうな情勢になっている。その状況を戸惑いつつも喜んでいる。だが、情勢を考えて、付き添いや面会は断った。
当たり前と思っていた事が当たり前ではなくなるという経験は、コロナ終息後の生き方も変えるだろう。「コロナ禍でも最低限必要なものは手に入った」との息子の言葉に頷き、感染の危機の中でも休まずに働き続ける医療従事者や公共交通機関職員、スーパー店員などに敬意と感謝を覚える。
コロナ禍に限った事ではなく、日常生活は、自然環境も含む多くの事柄によって支えられ、動いている。だが、その事を忘れ、自分達だけで生きているかの錯覚に陥りやすいのも人の常。コロナ禍は、共生共存の意味、何気ない日常の尊さ、生かされている喜びなどについて考え直す契機ともなっている。 (み)