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中島宏著『クリスト・レイ』第7話

 日本語学校を見に来たつもりが、この異様な風景に衝撃を受けて、日本語のことは何だか影が薄くなってしまったような感じであった。ただ、そこにいた人々のほとんどすべてが日本人であったことは事実であり、そのために異国に入り込んだような錯覚が生じ、そのことが日本という東洋の国を意識させるような雰囲気にはなっていた。
「ああ、お早う、ケンゾー。今日はあなたの友だちを連れてきたのですか」
 日本語学校の建物の前に立っていた日本人と思われる若い女性が、ポルトガル語で声をかけてきた。ケンゾーは、日系二世である。
 彼は、エンリッケとマルコスを、この若い女性に紹介した。
 女性は、現在この学校で日本語を教えている、アヤ・ヒラタですと自己紹介した。通常、アヤ先生で通っているらしい。ひどく若い。どこか少女のあどけなさが残っているような雰囲気さえ、そこにはある。
「ようこそ、エンリッケとマルコス。日本語に興味がありますか? 最初は難しいかもしれませんが、少し覚えたら、だんだん面白くなりますよ」
 日本人にしては、ポルトガル語がうまい。
 マルコスは、それまで時折、町で日本人に会うこともあったが、彼らは大抵グループを作って、お互いに日本語で話していたから、ポルトガル語が不得手のようであった。
 ただ、エンリッケの友だちのケンゾーのように、ブラジル生まれの二世の場合は別で、普通にポルトガル語が話せた。もっとも、同じ二世でも、ポルトガル語より日本語の方が分かるという者も結構多かったから、この時代、ポルトガル語がうまく話せる日系人は、どちらかというと少数派といってよかった。彼らの場合、例外なくブラジルの学校で勉強し、それなりにブラジルに関する知識も持っていた。
 アヤ先生も、そんな人たちの一人だろうと、マルコスは勝手に想像した。
 そんなわけでともかく、マルコスは日本語学校に通うことにした。毎日ではなく、週に三日ほど、午後の四時ごろからの授業を受けることになった。要するにこの場合は、日系人でも日本語が不得手な者ばかりを対象とした授業で、いってみれば日本語塾といった趣のものであった。
 マルコスとエンリッケのほかに、十人ほどの日系二世たちがいた。彼らの年令はマルコスたちよりも数年下で、十二、三歳の者が多かった。そして、すべての者が農作業に従事していた。エンリッケはどうか分からなかったが、マルコスの場合は、あの、不思議な教会にひどく興味が引かれたという感じがあって、そこにちょっとしたミステリーのようなものを感じていた。
 だから、日本語を勉強するにつれて、その辺りのことが徐々に分かってくるのではないかという期待感から、それは始まっていったともいえる。
 どうして、こんな片田舎にこのような教会が建っているのかという疑問は、そのときのマルコスにとって決して小さなものではなかった。もし、この教会が存在しなかったら、彼もすぐには日本語を覚えるという気にならなかったかもしれない。
 彼の持っている、東洋に関する知識の範囲からいえば、日本の国は元来、仏教によって成り立っている国であるから、そこにはキリスト教が入り込む余地はほとんどないはずなのだが、目前にいるその日本人たちがこのようなキリスト教会を持っているということが、よく理解できなかった。