ホーム | 連載 | 日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で | 日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(2)=大統領もスペイン風邪犠牲者に

日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(2)=大統領もスペイン風邪犠牲者に

スペイン風邪で死んだロドリゲス・アウヴェス大統領(Foto: Wikimedia Commons)

スペイン風邪で死んだロドリゲス・アウヴェス大統領(Foto: Wikimedia Commons)

 スペイン風邪の時、ブラジルの病死者で一番有名なのは、1918年の大統領選挙で当選したロドリゲス・アルヴェスだ。11月から就任するはずだったが、病のために就任できなくなり、翌年1月に亡くなった。
 大統領代行を務めたデルフィン・モレイラは、伯国史上初の大統領代行になった。
 アウヴェスは1902~06年まで第5代大統領になっており、二度目の任期を迎えるところだった。サンパウロ州グアラチンゲーター市出身で、USP法学部卒、サンパウロ州統領も3回務めたサンパウロ州出身大統領だった。
 当時から「密集を避けろ」「手を良く洗浄するように」「身体接触を避ける」と呼びかけられたが、当時から大衆には衛生知識がなく、あまり守られなかった。
 当時も感染者の急激な拡大を受けて、政府は教会、バール、劇場、工場、学校などを閉鎖した。やっていることは、実は今とあまり変わりない感じがする。ただし、医療水準は現在とは比べ物にならないほど低く、医者は肺炎の症状を緩和する薬を出すだけだったという。
 感染拡大が始まった18年9月から年末までの間に、当時のブラジル全人口3千万人の65%が感染したと、感染学研究機関FioCruzは見ている。この時に首都リオで大活躍したのが生物学者カルロス・シャーガスで、感染対策責任者として招聘され、臨時病院5カ所、臨時診療所27カ所を設置するなどの対処をしたが、1万2700人が亡くなった。
 この時、日本では39万人が亡くなったから、ブラジルの被害は少ない方だった。
 この当時の逸話として興味深いのは「カイピリーニャの誕生秘話」だ。エル・パイス紙電子版(https://brasil.elpais.com/sociedade/2020-03-16/em-1918-gripe-espanhola-espalhou-morte-e-panico-e-gerou-a-semente-do-sus.html)によれば、カシャッサにリモンを絞ってハチミツで甘くして飲むこのカクテルは、「スペイン風邪の民間治療薬」として18年にサンパウロで発明されたのだという。当時サンパウロでは地方出身者を描いた独自演劇「A Caipirinha」(1880-1928)が長年上演されており、それと相まって命名されたらしい。
 つまりカイピリーニャは、現代ブラジルに残る「スペイン風邪の文化的遺産」だ。日本でも風邪をひいたら玉子酒などの風習があるが、ちょっと似ているかもしれない。
     ☆
 世界史上のパンデミック死者数で文句なしの1位はペストだ。1347年〜1351年に大流行したそれは黒死病とも表現され、死者総数2億人と言われる。大きな文化的痕跡を残している。
 「Quarentena(クアレンテナ)」という言葉もその一つ。新型コロナと共に「新しい生活語」の一つとなった。直訳すれば「検疫」だが、読んで字の如し、イタリア語の40(Quaranta)が語源だという。
 14世紀に欧州でペストが大流行した際、現在のイタリア内にあるヴェネツィア共和国では1377年、疫病の感染が疑われる船舶を、ペストの潜伏期間である40日間、港の外に強制的に停泊させる検疫制度を開始した。ここからクアレンテナという言葉が検疫という意味を持つようになった。そこから643年経った現在も、この防疫対策は有効だ。
 1348年からの6年間で、当時1億人ほどと推測される欧州の人口のうち、2、3割がペストで病死したと見られている。3人に1人が死んだ状態だった。
 農村の人口が激減して廃村が相次ぎ、結果的に農奴制が崩壊して、小作農が出現するという社会変革をもたらしたと言われる。それぐらいパンデミックは歴史を動かしてきた。(つづく、深沢正雪記者)