「日いづる処の天子」聖徳太子
国内の改革に成功した聖徳太子は、607年、再び遣隋使を派遣した。正使に選ばれた小野妹子(おののいもこ)は、豪族の出身だったが、才能を認められた優れた人物であった。
この時の隋の皇帝にあてた国書(国の正式な手紙)の冒頭には、「日いづる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意をあらわした。隋の皇帝・煬帝(ようだい 569 – 618)は、この国書を無礼だとして激怒した。
朝貢国が、世界に一人しか存在しない皇帝の別名である天子という名称を、みずからの君主の称号として用いるのは、許しがたいことであった。しかし高句麗との戦争をひかえていた煬帝は、日本と高句麗が手を結ぶことを恐れて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使者をつけた。
翌年608年、3回目の遣隋使を派遣することになった。その時、国書に記す君主の称号をどうするかが問題となった。中国の君主と同じ称号をとなえることは出来ない。
そこで、「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」と書いた。皇帝といわず、隋の立場を配慮しつつも、「皇」の文字をみずからの称号に使うことで、両国が対等であることを表明したのである。
これが天皇という称号が使われた始まりとなった。日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、今日に至っている。天皇とは、宗教的な権威を含む最高の統一者を意味するもので、これは、天皇をいただく独自の文化を持つ国家であることを世界に示している。
聖徳太子は、607年に法隆寺(ほうりゅうじ)を建てるなど、仏教をあつく信仰した。
しかし朝廷は、日本古来の神々を大切にすることも忘れなかった。同じ年に、朝廷で儀式を行い、伝統ある神々を祀り続けることを誓った。こうした姿勢は、外国の優れた文化を取り入れつつも、自国の文化を大切にするという日本の伝統の基となったと考えられる。
太子は、内政でも外交でも、8世紀に完成する日本の古代中央集権国家の設計図を描いた指導者だった。太子が活躍した7世紀には、政治や文化の中心が奈良盆地の飛鳥地方にあったので、この頃を飛鳥時代と呼ぶ。
大化の改新
618年、唐が中国を統一し、新王朝を開いた。唐は隋の制度を引きつぎ、律令、戸籍、兵役、科挙など良く整備された国家をつくりあげた。日本からは遣唐使が派遣され、同行した留学生や僧が現地に滞在して唐の優れた制度や文化を学んだ。
7世紀の中頃になると、国力をつけた唐は、対立する高句麗を攻撃し始めた。朝鮮半島3国に緊張が走り、日本も危機を感じ、国家の体制を強化し始めた。
聖徳太子が亡くなったあと、蘇我一族が権力を振るうようになった。蘇我馬子(そがのうまこ)の子・蝦夷(えみし)は、天皇のように振る舞い、自分の子を王子と呼ばせた。蝦夷の子入鹿(いるか)も、聖徳太子の長男を始め、太子の一族を一人残らず死に追いやって滅亡させた。
やがて、太子の理想を受けつぎ、蘇我氏をおさえ、天皇を中心とする国づくりをもとめる機運が生まれてきた。唐に派遣されていた遣唐使や留学生、僧侶が相ついで帰国し、唐の政治制度を伝えたことも改革の機運を高めた。
大化の改新は、蘇我氏を倒すことから始った。その中心となったのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)であった。
645年、皇子と鎌足は蘇我親子を打ち滅ぼし、新しい政治の仕組みを作る改革を始めた。この年、朝廷は日本で最初の年号を立てて、大化元年(645年)とした。
東アジアで中国の王朝が定めたものとは異なる独自の年号を制定して現在まで使用し続けているのは日本だけである。
翌年646年、これまでは皇室や豪族が私有していた土地と民を国家が直接統治する、公地公民(こうちこうみん)の方針を打ち出した。大化の改新は聖徳太子以来の国の理想を実現するために、天皇と臣下の区別を明らかにし、日本独自の秩序を打ち立てようとしたものであった。
白村江の戦い
中大兄皇子は都を飛鳥から近江に移し、即位して天智天皇(661―671)となった。天皇は国内の改革を更に進め、全国的な戸籍をつくった。
朝鮮半島では新羅が唐と結んで、日本と親交のあった百済を滅ぼした。半島南部が唐の支配下に入ることは、日本にとっては脅威となることから、朝廷は百済復興のための救援要請を受け、多くの兵と物資を送った。
唐・新羅連合軍と日本・百済軍の決戦は、663年、半島南西部の白村江(はくすきのえ)で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本・百済側の敗北に終った(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を真っ赤に染めた。
次いで、新羅は高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一した。百済からは、王族や貴族を始め、一般の人々まで日本に亡命してきた。そのうちの一部は近江(滋賀県)、一部は東国に定住した。朝廷は彼らを厚くもてなし、政治の制度の運営についての知識を得た。
白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった。唐と新羅の来襲を恐れた日本は、九州に防人(さきもり)を置き、水城(みずき)を築いて、国をあげて防衛につとめた。
防人とは、全国から集められ、九州北部沿岸と壱岐、対馬に配置された兵士のことで、3年交代で防衛の任についた。東国の兵士が多かった。
天智天皇が亡くなった672年に、天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)と天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)の間で、皇位継承をめぐって内乱がおこった。これを壬申の乱(じんしんのらん)という。
大海人皇子は東国の 豪族を味方につけ、機敏な行動で大勝利をおさめた。この争いの中で豪族たちは分裂し、政治へ発言力を弱めた。こうして、天皇を中心に国全体の発展をはかる体制がつくられていった。
内乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇(672 – 686)として即位し、皇室の地位を高め、公地公民をめざす改革の動きを力強く進めた。
また中国の律令制度も参考にして、国家の法律をさらに整備し、国の歴史書(『古事記』『日本書紀』)の編纂に着手した。同時に国を運営する役人の位や昇進の制度を整え豪族たちをこの制度の中に組み入れていった。
天武天皇の没後、皇后が即位して持統天皇となり改革を受けついだ。持統天皇は、都として、奈良盆地南部の地に、藤原京を建設した。
これは中国にならってつくられた大規模な都の建設だった。ここに、聖徳太子の新政以来の律令国家をめざす国づくりが完成に近づいた。このころより、日本という国号が用いられようになった。
《補講》「日本」という国名のおこり
「太陽の恵みをいっぱい受ける国」わたしたちの国の名前は、「日本」(ニッポンまたはニホン)です。では「日本」とはどんな意味を持つ言葉でしょうか。「にっぽん」は「日」と「本」という2つの文字で成り立っています。
「日」は、太陽のこと。太陽は、地球上のあらゆるものに光と熱を与え、命をはぐくみます。
古代の日本人は、太陽の恵みを自覚していました。人間の知恵や力をはるかに超えた偉大な自然の「気」を感じ取っていたのです。
「本」という字は「・・の元」ということです。二つをあわせると「太陽が出て来る処」となります。「昇る太陽の出てくるところの国」という意味になります。
これは、自分たちの国にゆるぎない自信を持ち、その歴史にも誇りを持った古代のご先祖様が選んだ名前です。
「日本」という名前が出来る前には、周囲の国々から「倭」(わ)「和国」(わこく)と呼ばれていました。それは古代中国の人たちが、わが国を軽くみて、侮る気持ちで用いた名前だったのです。
国内の政治制度がしだいに整い、国力も伸びて、アジアの国々の中でも重要な地位を占めるようになると、もっと自国に相応しい名前があるはずだと考えるようになりました。
1300年ほど前、聖徳太子の新政によって、それまで中国の王朝との交渉は、日本は服属国のような立場を取っていました。それを改めるため、「天皇」という君主の称号を使い始め、中国に対して自主・対等の姿勢を示すことになりました。これが「日本」という国名の出発点でした。
その後、天智天皇や天武天皇のもと、大化の改新を経て政治のしくみや、国内体制が整いました。
こうして、それまでの政治改革の成果をまとめて飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という法律で「日本」という国名が公式に定められたと考えられています。
それから約1300年を経た今日まで、この国名はまったく変わることなく使われています。我が国の名称がこの長い年月の間変わらなかったのは、その間国が途絶えたり他の民族に取って代わられたりすることがなかったからです。わが国は、世界で最も長い歴史を持つ国です。
「ジャパン」の起源も「日本」より
「ニッポン」と「ニホン」のどちらが正しい発音でしょうか。実はどちらでも良いのです。古くは「ニッポン」だったのが、短く「ニホン」と発音するようになり、両方の発音が並び使われるようになったからです。
また古くは中国で「ジッポン」と言う発音も行われていました。それを西洋の人々が耳で聞き取って、「ジパング」となり、更には、英語で「ジャパン」とも呼ばれるようになりました。「ジャパン」の起源もまた、「日本」だったわけです。
《資料》敗戦を教訓にした律令国家
7世紀なかば、東アジアは動乱の中にあった。強大な唐王朝に脅威を感じた朝鮮半島の国々は中央集権化を進めていた。
しかし百済、新羅、高句麗の3国は、古来激しい抗争を繰り返しており、唐の軍事介入を招いた。
まず、唐・新羅軍は、百済を滅ぼし、次いで高句麗を南北から挟み撃ちにして滅亡させた。日本は百済の救援に赴いたが、百戦錬磨の唐軍に対して、豪族の寄せ集めである日本軍は、作戦もまとまらず、大敗を喫した。
敗戦後、天智天皇は国家の危機を感じて中央集権化と律令の整備につとめた。天智・天武天皇は、東アジアの攻防と敗戦の経験を教訓に国づくりを進めた。
《資料》聖徳太子が作った憲法 (604年)
「一に曰く、和を以って尊しとなし、さかうることなきを宗とせよ」で始まる聖徳太子の17カ条の憲法を現代語訳に直した要旨。
①和を尊び、人に逆らいそむくことのないように心がけよ。
②篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法(仏の教え)と、僧(教えを説く僧侶)である。
③天皇の詔をうけたら、必ず謹んでこれに従え。
④役人は、人の護るべき道を全ての根本とせよ。
⑤裁判は公平に行え。
⑥悪を懲らしめ、善をすすめよ。
⑦人は各自の任務を果たせ。
⑧役人は、早く出勤し、遅く帰ること。
⑨全てのことにうそいつわりのないまごころをもって当たれ。
⑩人の過失を怒ってはならない。
⑪功績があれば賞を、罪を犯したら罰を正しく与えよ。
⑫地方官は民から税をむさぼりとってはならない。
⑬役人は自分職務の内容をよく理解せよ。
⑭他人に嫉妬をもつな。
⑮私心を捨てて、公の立場にたつのが、君主に仕える者の勤めだ。
⑯民を労役に使うときは、農業の仕事の暇なときにせよ。
⑰大切なことは一人で決めないで、皆とよく議論して決めよ。