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特別寄稿=EUで最も有名な日本人女性=初の国際結婚、欧州で貴族に=サンパウロ市在住 酒本恵三

クーデンホーフみつ、1896年に撮影。1903年より夫の改姓によりクーデンホーフ=カレルギー姓に。みつは後に自らを光子(みつこ)と名乗る(Unknown author/Public domain)

 「クーデンホーフ光子」という方を知っていますか?
 日本人には余り知られていませんが、今から120年前、日本人として初めて国際結婚をし、後に「ヨーロッパの母」とまで言われ、EUで最も有名な日本人女性です。一体どのような方なのでしょうか?
 1874年、青山光子は東京で骨董商をしている両親の元に生まれました。小学校を卒業後、政治家や文化人が集う高級社交場で働き、その後父親が経営する骨董商の手伝いをするようになりました。
 明治25(1892)年、ハンガリー∙オーストリア帝国の貴族で外交官ハインリヒ∙クーデンホーフが日本に赴任します。当時は、外国人の多くが日本の骨董品に興味を示していた時代。ハインリヒも光子の父の骨董商を度々訪れていました。
 ある寒い冬の日、ハインリヒは馬で移動中に滑って転倒してしまいます。その手当てをしたのは光子です。そこから二人の仲が深まりました。日本人にしては珍しい八頭身の瑞々しい美しさを放つ光子に一目惚れしたのです。
 しかし、当時は閉鎖的な社会で国際結婚など考えもしない時代でした。又当時は娘の結婚は父親が決めるものでした。周囲が猛反対する中、ハインリヒは結婚を許してもらうため相当な犠牲を青山家に払いました。
 「娘さんを僕にくれたら、あなたが死ぬまで永遠に毎月100円を払い続けます」と約束したのです。当時の100円は現在の価値で100万円に相当します。
 そして光子は勘当も同然で当時の東京府に結婚届けを提出しました。これが日本初の国際結婚となりました。二人は東京にある外交官寮で一緒に暮らし始めました。
 当時は人種差別が公然と行われており、日本は極東の未開で貧乏な一小国としてしか見られていなかった時代でした。ハインリヒは、東京∙横浜に居留する全ヨーロッパ人にこう宣言します。
 「もし、わが妻に対して、ヨーロッパ女性に対すると同等の取り扱い以外を示す者には、何人を問わず、ピストルによる決闘をいどむ」
 これに関して、ベルギー公使は、「決闘は一回も行われなかった。誰しもが新しいオーストリアの外交官夫人の優美と作法に魅了された。外交団全体が彼女に対して尊敬の念を示した」と当時のことを日記に記しています。
 光子は夫と意思を通わせたい一心で語学を猛勉強し、二人の子供を授かりました。1896年、日本での5年間の赴任を終え帰国することとなりました。
 宮中参賀の場で明治天皇の皇后美子から、「遠い異国に住もうとなれば、いろいろ楽しいこともあろうが又随分と悲しいことつらいこともあろう。しかしどんな場合にも日本人の誇りを忘れないように」と激励を受け、ハインリヒの祖国オーストリアへ旅立ちました。
 夫の家はボヘミアとハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家です。二人は古城ロンスペルグで暮らすことになりました。さらに5人の子供を授かり、29歳にして7児の母親となったのです。
 極東の島国から来た光子への偏見の眼差しはとても強いものでした。夫、ハインリヒは、子供達が完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ光子に日本語を話すことを禁じました。
 光子は多忙な夫以外に心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシックにかかります。つらさのあまり何度も日本に逃げ帰ろうと思った光子でしたが、そんな時に心を支えたのは、「日本人の誇りを忘れないように」という皇后陛下のお言葉でした。
ある日、子供が家で教科書を開いて自習している時の事です。
 「お母様、これは何ですか?」と光子は質問されました。

クーデンホーフ光子(Unknown author/Public domain)

 ところが日本で尋常小学校しか出ていない光子にはさっぱり分かりません。当然ヨーロッパ人の母なら心得ている事を、自分がしらないのでは、日本女性の名折れである――と思った光子は家庭教師をつけ、子供より先に勉強し、語学や教養を見につけ、さらにヨーロッパの立ちふるまいなども必死に勉強しました。
 次男のリヒャルトは、その当時の事を自伝でこう回想しています。
 「母は一家の主婦としてよりも、むしろ女学生の生活を送っていて、算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、フランス語、歴史、および地理を学んでいた。その他に、母はヨーロッパ風に座し、食事をとり、洋服を着て、ヨーロッパ風に立ち振る舞いすることを学ばなければならなかった」
 立派な母親となるために、睡眠時間を削ってまで勉強に打ち込む姿は、子供達の心に深い影響を与えました。
 後にこのリヒャルトは、ヨーロッパ合衆国の実現に向けて、終生たゆみない研究と運動を続けていくことになります。そして彼の理想は、いま、欧州連合EUとして立派に実っています。
 明治38(1905)年に日露戦争勃発。戦勝国日本の国際的地位が高まると、光子への偏見もようやく和らぎましたが、翌明治39年5月に、夫ハインリヒが心臓発作で急死してしまいます。
 わずか14年の夫婦生活でした。異国に一人残された光子・・・。光子は、今まで二人で築いてきた世界が足元から崩れ去っていくような気がして大きく打ちひしがれました。
 しかし、悲しみに浸っている時間は与えられませんでした。夫は遺書に、こう書き残したのです。
 「長男ヨハンをロンスペルグ城の継承者とする。その他いっさいの財産を光子に贈り、子供たちの後見も光子に託されるべし」
 親戚一同から糾弾された光子でしたが、「これからは自分でいたします。どうぞよろしくご指導願います」と信念をもち断固として言い切りました。

 そして、法律や簿記、農業経営などを、必死で勉強しました。領地財産の管理を自ら立派にこなし、亡父の精神に沿って、子供達を立派なヨーロッパ貴族として育てようと、育児にもさらに打ち込みました。
 1914年、第一次大戦が始まります。オーストリア∙ハンガリー帝国は日本とは敵国同士。反日感情が湧き起こったウイーンでは日本人外交官や留学生が国外退去します。
 しかし光子はたった一人の日本人としてそのまま残ったのです。そして自ら3人の娘を連れて、赤十字に奉仕しました。黒い瞳を持つ光子の一生懸命な看護に人々は好感をもち始めました。
 さらに光子は領地の農民を指揮し森林を切り開き、畑を作ってジャガイモを実らせます。そしてそれらを国境戦線まで兵士の食糧として運ばせました。自ら男装して監督もしたといいます。
 ロシア軍に苦戦し食糧難に悩まされていたオーストリア兵は「生き身の女神さま」と光子を称えました。光子の元を飛び出した子供たちはそれぞれ立派に成長します。
 中でも東京生まれのリヒャルトは著作でヨーロッパ総合を提唱しました。「民族独立」のスローガンの中で、第一次大戦後、様々な国が解体∙独立を繰り返していました。
 民族対立の火種を抱えたままでは、いずれヨーロッパに再び大戦が起こり、世界平和をかき乱す禍の元となってしまうと考えたリヒャルトは、1923年に著書「パン∙ヨーロッパ」を発表。「ヨーロッパの28の民主主義国家がアメリカのような一つの連邦国家としてまとまるべきだ」と唱えました。
 これがEUにつながります。人々はこのリヒャルトの思想に、「分析」を特徴とする西洋思想に対して、「総合統一」という東洋思想を感じ取りました。そしてこのリヒャルトの母が日本人であると驚きの事実が世間に伝わると、「ヨーロッパ連合案の母」「ヨーロッパ合衆国の母」、「パン∙ヨーロッパの母」などと光子は呼ばれるようになりました。

欧州連合の本部(EmDee/CC BY-SA)

 光子は、大正14(1925)年に、脳溢血で倒れます。なんとか一命はとりとめたものの、右半身が不随となりました。その後は次女オルガに介護してもらって静養の日々を過ごしたといいます。
 そしてその頃の光子の唯一の楽しみは、ウイーンの日本人大使館に出かけて、大使官員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことでした。
 昭和16(1941)年8月、第2次大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら67歳の生涯を閉じます。渡欧して45年のことでした。
 「私が死んだ時は、日の丸の国旗で包んでもらいたい」それが、晩年の光子の口癖でした。彼女の生涯を決定した要素は三つの理想、すなわち、名誉∙義務∙美しさでした。
 光子は自分に課された運命を、最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受したのです。
 日本人の日本的な日本人であるがゆえの美徳なのではないでしょうか。光子の自分の使命を果たした姿に心より尊敬します。(Youtubeより抜粋)