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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(10)=医療皆無の戦前日本人集団地

モジの日本人農家(『在伯同胞活動実況写真帳』(1938年、竹下写真館 高知県古市町)

モジの日本人農家(『在伯同胞活動実況写真帳』(1938年、竹下写真館 高知県古市町)

 野口英世が米国に戻ってすぐ、同24年に「同仁会」という日本人医師会が組織された。日系医療・福祉団体の始まりだ。
 それが中心になって全移民の悲願として日本病院(現サンタクルス病院)の建設計画が1930年代に進められ、今から81年前、1939年4月29日に落成式が行われた。戦前に作られた最初の本格的な日系病院であり、それだけ昔から深刻な問題であったことの裏返しといえる。
 『移民四十年史』(香山六郎編著、1949年)の第7章「日本移民の衛生」には《開拓者の最も多く悩まされたのはマレッタ(マラリア)で、同仁会設立前後においてはこの病気が各地方に猛威を振るい、その犠牲となった邦人の数は確たる統計こそないが、それは相当であった》(393ページ)と前書きし、サンパウロ州の日本人集団地のマラリア被害の実情を説明している。
 同書には、マラリア患者を調査した同仁会の報告がこのように書かれている。《1925年から翌26年にかけて、同仁会嘱託医高岡がソロカバナ線オウリンニョス付近、シャバンテス付近、サンタクルス・ド・リオ・パルド地方、北パラナ、カンバラ町付近などの十数カ所にわたって調査割いた結果をみると、訪問家族数164戸の中、144戸はマラリア患者を有し、わずかに20戸だけがその病害から免れていた。右144戸の罹病人員は552人で、その罹病率は実に61%余りに上り、死亡数は44人で死亡率は7・2%を示した。
 同年5月ドラデンセ線、およびパウリスタ線を調査した結果を総合すると、調査人員1319人中マラリア罹病者は760人の多きに上り、その百分率は66・2%を示した。いかにその流行の激烈だったかが察知された》(393ページ)
 つまり、植民地には普通、防疫対策、医療は皆無だった。そんな開拓地で病魔と闘いながら原始林を切り倒すのが、初期移民の日常だった。今では新型コロナ禍で「医療崩壊」などと騒がれるが、100年間はそれのはるか以前の「医療皆無」だった。
 《こうした植民地または開拓地の衛生状態を導くために医師が欲しかった。当時伯人医師の数もごく少なく、それに自動車道はもちろん、馬車道も発達していない時代の市街、耕地、植民地へ患者があり、遠方より医師を招くにしても、馬車の通わぬところは医師は案内人をつれて馬で10キロ、20キロの山道を往かねばならぬ。病家に着くには半日、あるいは一日を要した。
 一往診500ミル当時の金で支払わされる。植民、コロノ(農業労働者)の当時の恵まれぬ経済状態では医師を招くことは耐えられぬ負担であった。医師も遠方へは中々応じなかった》(『40年史』388ページ)

建設した当時の日本病院(サンタクルス病院所蔵)

建設した当時の日本病院(サンタクルス病院所蔵)

 『サンタクルス病院の歴史』(サンタクルス日伯慈善協会、2017年)にもこんな記述がある。《コーヒー農園の契約農たちの大きな不安の一つは病気でした。貯蓄を医師や薬に使い尽くし、支払えないような金額を請求されることもありました。農園までの医師の訪問診察に薬代を加えた価格は、土地1ヘクタールか、コーヒーの木1千本を1年間世話することによって契約農が得られる報酬の額に相当していました》(21ページ)。
 普通の移民にとって、医者に診察してもらうこと事態が高根の花、相当の覚悟がないとできないことだった。(つづく、深沢正雪記者)