「信ちゃん」こと沼田信一さんは、1933年7月にありぞな丸で来伯し、サンパウロ州セッテ・バーラス植民地に入植、翌年5月にパラナ州ロンドリーナ市郊外に移転し、同市入植の草分けとして一貫して農業に携わってきた有名人だ。
パラナ日伯文化連合会相談役も務めるほど人望が厚く、第10部まで発刊された『信ちゃんの昔話』シリーズや『日本人が開拓した植民地の数々』の著書もある。
その『信ちゃんの昔話』第9巻3話に、コーヒー園で働くブラジル人労働者のために、医者の代わりに著者が注射をする話が出てくる。
《私でも、自分の労働者を主に相当数の人々に皮下注射から、時には血管注射をしてあげたものであるが、注射で失敗の無かった事は誠に幸いであった。特にペニシリンの流行時代には耕地で百本単位で準備していたものであるが、ペニシリンによるアレルギー反応で心配させられる事の一回も無かった事は幸いであったと感謝している》(PDF版28ページ)。
今では医療免許を持たない人が注射をするなど考えられない。しかも100本単位で感染症の特効薬ペニシリンを常備しておくということは、どれだけ感染症が多かったかという証明だ。
日本人集団地で生活した人なら、「土負け」という言葉を聞いたことがある人は多い。マラリアに次ぐぐらいに開拓地に住む移民を苦しませた感染症と言われる。
特に北パラナの沃土で有名なテーラロッシャ地域には多く、《おそらく十人に十人が経験した》と沼田さんは書いている。『信ちゃんの昔話』第9巻の第8話によれば、デキモノの一種で、かならず衣服から外に出ていて、日常的に土埃に触れる部分にできることから、「土の何らかの成分に皮膚が負けてできたアレルギーの類い」と移民の間では信じられていた。例えば、手ならひじから先、足なら膝から下にできやすい。
《ひどくかゆくて、がりがりかいていると、赤いボツボツとなり、そのうちに膿をもつのであるが、膿が出てしまうとカサブタも取れて治るのである。ただし一つ治ったからといっても、幾つもできており、又できてくるのであるから、大変嫌な思いをさせられたおできであった》(PDF版32ページ)
原因として沼田さんがブラジル人医師の説明として読んだところでは、土に対するアレルギーに加え、《主として蚊や、その他の小昆虫にかまれておこるものであるという。又、十二指腸虫のような寄生虫の侵入口がかゆいこともあろう。はれてオデキになるのは第二次伝染で化膿菌の性であると書かれている》(PDF版33ページ)
原始林の開拓生活で、どれほどの虫に囲まれていたかは、次の記述からも容易に想像できる。
《あの原始林の開拓時代の蚊、ブヨ、ビリグイ等々に攻められた事、特に雨前のムシムシする様な時は、汗を吸いにくるのか一人の人の周囲に集った小虫の数は、何千匹ではなく、何万匹と来ていたもので、マバタキをする度に、二、三匹つかまえた事を覚えている人はまだ居るはずだ》。
この「ビリグイ(birigui)」とはサシチョウバエのこと。ノロエステ地方のアラサツーバ付近の地名にもなっている。
開拓生活とは、自然との闘いであり、虫とそれがもたらす感染症との戦いの毎日だった。(つづく、深沢正雪記者)