第2節 武家政治の展開
鎌倉幕府の支配が揺らぎ始めると、北条氏はいっそう権力を集中しようとして、かえって御家人の反発を強めた。
14世紀の初めに即位した後醍醐(ごだいご)天皇は、天皇自らが行う天皇親政を理想とし、その実現のために倒幕の計画を進めた。初めは計画が漏れて失敗し、後醍醐天皇は隠岐の島に移された。
後醍醐天皇の皇子護良親王や、河内の豪族・楠木正成(くすのきまさしげ・1294- 1336)らは近畿地方の新興武士を結集して幕府と粘り強く戦った。
やがて、後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると、形勢は一転した。幕府軍から有力な御家人が脱落した。
足利尊氏(あしかがたかうじ・1305 – 1358)が幕府にそむいて、京都の六波羅探題を滅ぼした。ついで関東の新田義貞も朝廷方につき、大軍を率いて鎌倉の幕府を攻め、1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡した。
後醍醐天皇は、京都にもどると、天皇親政をめざし、公家と武家の力を合わせた新しい政治を始めた。幕府滅亡の翌年、1334年に年号を建武と改めたため、これを建武の新政(建武の中興)という。
しかし、建武の新政は、武家社会の慣習を無視して領地争いに介入したり、貴族の慣例を否定した人材登用を行ったため、当初から政治への不満を多く生み出した。そのような時に、足利尊氏が武家政治を再興しようと兵をあげ、天皇親政による新しい制度は2年余りで崩れ去った。
1336年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めた。これは京都に幕府を開き、鎌倉幕府の政治を手本とした幕府政治の再興をはかったものだった。
一方、後醍醐天皇は、吉野(奈良県)に逃れ、ここに2つの朝廷が並び立つこととなった。京都の朝廷を北朝と呼び、吉野の朝廷を南朝と呼んだ。両者はそれぞれ各地の武士に呼びかけ、約60年の間、全国で争いを続けた。この時代を南北朝時代(なんぼくちょうじだい)とよぶ。
戦いに明け暮れた室町時代
足利尊氏は、建武式目を制定し、新しい幕府の方針とした。1338年に、北朝の天皇から征夷大将軍に任じられ、京都に幕府を開いた。のちに尊氏の孫の義満が、京都の室町に邸宅を建て、そこで政治をおこなったため室町幕府と呼ばれた。
足利氏は、そこで237年もの間、政治の中心を占めていた。この期間を室町時代(1336 – 1573)といい、この期間は、3つに区分される。南北朝時代の56年間と南北朝が合一してから応仁の乱までの75年と、応仁の乱以降の戦に明け暮れた106年間をさす。
足利尊氏が京都に幕府を開いたのは、地の利のよさと、尊氏支持の有力武士団が畿内にあったためと鎌倉時代の有力武士団を、天皇の力を利用して従わせようとしたためである。
室町幕府は、将軍の補佐役として管領(かんれい)を置いた。管領には、足利一族の有力な守護大名がついた。また関東地方をおさめるため鎌倉府をおいたが、大きな権限をもっていたので、次第に京都の幕府から独立するようになった。
室町幕府は地方の守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分を取立てる権限を与え、守護の力を強め、全国の武士をまとめようとした。やがて守護は地元の武士を家来にし、荘園や公領を自分のものにしていった。さらに、国司の権限も吸収し、それぞれの国を支配する守護大名に成長した。
室町幕府は、将軍の力が弱く、守護大名による連合政権の性格をもっていたが、幕府として足利将軍家の力が最も大きかったのは、3代将軍義満の時代で幕府の最盛期であった。
義満は南朝の勢いが衰えた1392年に南北朝の合一を実現し、戦乱をおさめた。さらに、地方の有力な守護をおさえたり滅ぼしたりして、支配を安定させた。義満は武家の最高位である征夷大将軍と公家の最高位である太政大臣を歴任した。
室町幕府は、課税権、市政権、裁判権など、多くの朝廷の権限を吸収して、統一政権の性格を強めた。
他方で、義満は明(みん)国との貿易を求め、国交を開き、明国の皇帝に「日本国王」の金印をもらい、自らを 「日本国王臣源道義」 と名乗り、臣下として屈従する姿勢をみせた。
極東・東南アジアとの海上ネットワーク形成
13世紀後半から15世紀にかけて、東アジアは大きく動いた。中国では1368年、漢民族の王朝である明国が建国され、元が北方に追われた。明国は、日本に、倭寇の取り締まりを求めてきた。倭寇(わこう)とは、かって元の襲撃をうけた壱岐や対馬や松浦地方を根拠地とする武装貿易船団で、日本人のほか朝鮮人が多数含まれていた。
彼らは時には数百人にも及ぶ船団を組み、朝鮮半島や中国大陸沿岸に上陸して密貿易や略奪行為を行ったり、他の船舶に対し海賊行為を働いたりした。1404年、当時の室町幕府の将軍・足利義満は倭寇を取り締まることを条件に、明国との貿易を始めた。
この貿易は倭寇と区別するため、明国の皇帝が支給した証明書(勘合)を使ったので勘合貿易と呼ばれる。日本は刀剣・銅・硫黄・蒔絵などを輸出し、明国からは銅銭・絹織物・書画などを輸入して室町幕府の重要な財源となった。
朝鮮では、倭寇撃退に成果を上げた李成桂が高麗(こうらい)を倒し1392年、朝鮮(李氏朝鮮)を建てた。朝鮮も日本に倭寇の禁止と通交を求めてきた。幕府がこれに応じた結果、日朝貿易が始まった。
ところが日本側の貿易船があまりにも多かったので、のちに、朝鮮は対馬の宋氏に貿易の独占権を与え、日本からの使節を受け入れる窓口として倭館(わかん)を設けた。日本は銅、硫黄、染料などを輸出し、朝鮮からは木綿を輸入した。
琉球では、北山・中山・南山の3つの勢力が、それぞれ城を拠点に対立していたが、1429年には中山の尚氏が3つの勢力を統一して、琉球王国をつくりあげた。
そこは、明国が民間貿易を禁止する海禁政策をとる中で、明国の冊封を受け、日本、朝鮮、更には遠く東南アジアから各地の産物を明国にもたらす中継貿易で活躍し、繁栄した。
こうして、15世紀中ごろには、東アジアの海上交易のネットワークが出来上がった。
蝦夷地(えぞち = 北海道)では、アイヌと呼ばれる人々が、狩猟や漁業を行っていたが、14世紀ごろに、津軽(青森県)の十三港(とさみなと)を拠点にした交易が始まり、鮭・昆布・毛皮などをもたらした。それらの産物は、日本海を通って畿内に運ばれるようになった。
16世紀の倭寇は、大部分が中国人で、彼らは明国の海禁政策をかいくぐり、貿易や海運を行う一方、中国沿岸を荒らしまわった。そのため明国は国力を弱めた。又この時期、鉄砲や宣教師が倭寇の船に乗って日本へ到達した。
京都が焼け野原、地侍や一揆、自治の時代に
室町幕府の3代目・足利義満の死後、次第に幕府の権力は衰え、守護大名の細川氏と山名氏は、幕府の実権を争っていた。
8代将軍足利義政は、弟の義視をいったん後継者に決めながら、実子の義尚が生まれると、わが子に将軍の位を譲ろうとした。これが元で、将軍家の跡継ぎ争いがおこったが、それに管領家の跡継ぎ争いが連動して、細川勝元と山名宗全が対立し、1467年に応仁の乱(おうにんの乱)が始まった。
全国の武士が、細川の東軍と山名の西軍に分かれ、両軍で20万を超える兵が、京都を主戦場に戦った。戦いは11年間も続き、他所から入ってきた盗賊の略奪や暴行も盛んにおこなわれた。その結果、京都は荒れ果て、大半が焼け野原になってしまった。
応仁の乱は、従来の体制がくずれ、日本の社会が激しく変化するきっかけになった。室町幕府の権威はおとろえ、有名無実となった。それにともない、幕府に支えられた守護大名の権力も、しばしば家臣団に奪われた。
社会全体に、身分の下のものが実力で上のものに要求を認めさせたり打ち勝ったりする、下克上(げこくじょう)と呼ばれる風潮が広がるようになった。
政府が機能せず、治安を守ってくれる警察権力も存在しなかったため、武士は勿論のこと、僧侶から庶民にいたるまで、あらゆる階層の人々が自らの命と財産を守るため武装した。
法律や権力に頼らず、自分たちのことは自分たちで解決するという自力救済の思想が行きわたった。同じことは、農村でもみられ、地域の自衛のために農民は武装した。このようにして、侍でも農民でもあるような武士が多数生まれた。彼らは地侍と呼ばれた。
この時代の人々は、一揆と呼ばれる固く結束した組織をつくって、共同で行動した。1428年には徳政(とくせい=借金帳消し)を要求する農民一揆がおこった。山城国(京都)南部では、1485年有力な武士を指導者に民衆が団結して守護大名を追放し、8年にわたって自治を行った(山城の国一揆)。
加賀国(石川県)では、一向宗(浄土真宗)の信徒が、固い宗教的信念に結ばれて、1488年から100年近く自治を行った(一向一揆)。
日本にはこののち、戦国大名が出現し、互いに力を争う戦国時代に入っていった。一向一揆の指導者は、蓮如だった。その教えは「御文」(おふみ)というわかりやすい文書につづられ、多数の信者を獲得した。京都に本願寺を再興するなど、教団隆盛の基礎を築いた。
第3節 中世社会と文化
中世の農業には、さまざまな技術の改良があり、生産性が高まった。
米と麦の2毛作が普及し、牛馬耕が広まった。灌漑用に水車を利用し、刈草や牛馬のふんを肥料に使う工夫もなされた。
また商品作物の栽培が盛んになり、桑、コウゾ、ウルシ、エゴマ、藍など、手工業の原料となる作物がつくられた。繊維では、麻の栽培に加えて、16世紀になると朝鮮から伝わった綿の栽培も始まった。
手工業では、地元の特色を生かした特産品がつくられた。京都の西陣織、博多の絹織物、美濃の和紙、灘の酒、能登の輪島塗などが有名である。また、すき、くわなど農具や刀をつくる鍛冶職人、なべ、かまなど日用品を作る鋳物職人もあらわれ、生活を向上させた。
商業の発展と自治都市の誕生、人心救う仏教
農業や手工業の発達につれ、商業も活発になった。交通の要地や寺社の門前などで定期市が始まった。産業が盛んになってくると、物資の輸送を管理する問丸(といまる)、馬に荷物を載せて運ぶ馬借(ばしゃく)、高利貸を営む土倉や酒屋などが活躍した。
産業や交通の発達にともない、各地に商人や職人が集まって住む都市が形づくられた。日明貿易の拠点として栄えた港町の堺(大阪府)や博多(福岡県)では、富を蓄えた有力な商人の合議によって町の政治が行なわれ、自治都市としての性格を備えた。京都では、裕福な商工業者である町衆が、地域ごとに自治の仕組みをつくった。
自治の動きは農村にもおこった。近畿地方やその周辺では、名主(みょうしゅ)や地侍などと呼ばれた有力な農民を指導者として、荘園の枠を超えた村のまとまりがうまれた。農民は、村の神社や寺などで寄合(よりあい)を開き、林野の共同利用、用水路の管理、祭りなどの行事、村の掟などを相談して決めた。
こうした農民の自治組織を惣(そう)という。惣が発達すると、領主のむやみな介入をしめだし、年貢納入を惣が一括して行う地下請(じげうけ)や、犯罪捜査と裁判を惣独自に行う自検断(じけんだん)が行われるようになった。
鎌倉時代には、仏教はより深く民衆に浸透していった。戦乱や災害、飢餓におびえる民衆の心を救うために、源信、空也に続く行動的な僧たちが比叡山からあらわれた。法然(1133 – 1212)は浄土宗を開き、一心に、「南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」と念ずれば誰でも極楽浄土に生まれ変われると説いた。
その弟子の親鸞(1173 – 1262)はさらにつきつめて、善人よりも罪の深い悪人こそ罪の深さを知るゆえに救われると説き、浄土真宗(一向宗)の基礎を築いた。時宗の一遍は念仏の札を配り、踊り念仏で諸国をめぐった。
これらの新仏教はいずれも人智の小ささと仏心の大きさを知った上での他力本願の思想である。「ただ念仏を唱えて、全てを仏意にまかせよ」という教えは、修行や学問に縁の無い民衆には大きな救いだった。
日蓮(1222 – 1282)は法華経を仏教の最高の教えだとして「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)を唱えれば、人も国家も安泰になると説いた(日蓮宗)。
宋から帰国した栄西と道元は禅宗を伝えた。栄西は臨済宗を開き、いかなる凡夫にも仏性があり、それを自覚すればそれが悟りだと説いた。道元は曹洞宗を開いて、ひたすら座禅を組むことで、自力で悟りを得られると説いた。自己鍛錬を要する禅宗は武士の気風に合うため、鎌倉幕府に保護された。