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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(16)=完璧な防疫対策施す移住地も

バストス病院時代。病院職員と細江医師(左から4人目、『細江静男先生とその遺業』より)

バストス病院時代。病院職員と細江医師(左から4人目、『細江静男先生とその遺業』より)

 戦前としてはまれに見る先進的な防疫対策を施していた日本人移住地があった。バストスだ。
 1929年頃から開拓がはじまったバストスだが、当時の開拓地は完全な無医村で、公的な地域衛生など皆無に等しく、自分たちでなんとかするしかなかった。
 その独自対策の結果、周辺のランシャリア、クワタ、リノポリス、レトニヤ植民地などの集落が、マラリアの巣窟と化していたにも関わらず、「バストスにはマラリアはない」と周りから称賛される状態を保った。
 なぜバストスには徹底したマラリア対策が最初からほどこされたかと言えば、平野植民地の経験が活かされたからだ。
 マラリアは菌の保有者の血を蚊が吸って媒介者となり、別の人の血を吸う時に菌をうつす。マラリアを流行らさないため(1)媒介者たる蚊を減らすか、(2)最初から保菌者がいない状態に保つ必要がある。バストスは入植当初、後者を徹底した。
 だから、マラリアで全滅寸前まで追い込まれた平野植民地の惨状を、身をもって経験していた畑中仙次郎を場長として迎え、積極的に防疫対策を進めた。その際、畑中場長と二人三脚で、専門家としての観点から実行可能な検査を考え、実施したのが細江静男医師だった。
 防疫対策を指揮した細江氏は、開拓2年目の1930年8月から保険医として赴任し、地域衛生や病院建設などを担った。細江氏は1935年までそこに赴任し、その間にブラジル永住を決意している。それだけ医者として、やりがいのある経験をしたに違いない。
 細江静男著『ブラジルの農村病』(ブラジル日本移民援護協会刊、1968年)には、《広大な五百アルケール(約1200ヘクタール)以上の森林を一挙に焼き払い開拓する。そして、(編註・蚊がわきやすい)河川から遠く五百メートル以上はなして家屋を建設し、濁り水や小さな湖にはバルデパリス(編註・防虫剤)を散布し、あるいは、小川などをせき止め臨時湖水を造り、二週間に一回せきを切って人工洪水を起こし、それによってボウフラを押し流す》(PDF版5ページ)とあり、先進的な対策を当初から講じていたことが分かる。

1940年3月2日に落成されたバストス病院附属の恩賜病棟(『バストス25年史』(水野昌之著、1955年、PDF版303ページ)

1940年3月2日に落成されたバストス病院附属の恩賜病棟(『バストス25年史』(水野昌之著、1955年、PDF版303ページ)

 当時、そんな防疫対策をするところは連邦移住地ですらなかった。
 当時のバストス移住地がすごいのは、病院を最初から検疫所のように活用したことだ。外部から移住地に入る街道沿いに建設し、近隣の集落から毎日午後1回やってくるバスを病院前で停め、プラスモジューム(マラリア菌)の検査を施し、有菌者リストを作って薬を服用させた。
 移住地に来る人に対しては、マラリアだけでなく、梅毒の検査まで実施していた。《その自分、日本で村田氏反応という簡単な梅毒の検査法がはじめられていて日本からそれを持って来ていたので、これを利用し、バストスに住もうとして来植する労働者およびブラジル各地方からの入植者すべてに血液検査を行った》(『農村病』PDF版6ページ)
 このように、来場者を徹底的に血液検査して、バストス移住地だけを無菌状態に防疫した。細江医師が5年間赴任した間、《二、三の例外を除いて、まったくマラリアの流行をみなかった》(『農村病』PDF版7ページ)という成果をもたらした。
 これは例外的なケースとはいえ、90年前にそのような防疫対策がブラジルでも、一部の日系移住地では可能だった。このレベルの防疫対策が、今のブラジル各都市でも行われていれば、新型コロナウイルスはどうだっただろうか。(つづく、深沢正雪記者)