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中島宏著『クリスト・レイ』第20話

「ということは、アヤにも、友だちのような喋り方でいいということですか。うん、それだったら分かります。でも僕の場合は、日本語でその、友だちと話すような話し方を知らないのです。今まで、丁寧な話し方しか勉強してきませんでしたから、先生にそういうふうに話すことはできても、友だちのように話すことはできません」 「あ、そうか、そう言われれば確かにそうね。学校では、友達同士で使う話し方は特に教えませんからね。そんなことわざわざ教えなくても、みんな家では両親とは日本語で話してるし、兄弟の間でも、小さいときから日本語で話してきたから、そういうざっくばらんな話し方は自然に身についているということね。でも、マルコスの場合は、日本語学校以外では日本語を話すこともないから、結局、学校で習った話し方しかできないわけね。
うん、なるほど。あなたが言おうとしてることがやっと分かってきたわ。そういうことだったわけね。まあね、丁寧な日本語を覚えるに越したことはないけど、そういう話し方しかできないというのも、ちょっと考えものね。
そうね、ではこうしましょうか。これから私がマルコスにその、ざっくばらんな日本語の話し方を教えていきます。といっても、学校でそれを教えるわけにはいきませんから、時々、こうやって二人で話をするときに私が、そういう話し方をしますから、それをあなたが真似すればいいわけね。どう、マルコス、こういう方法だったら、あなたも覚えられるでしょう」 「そういうふうに教えていただければ、大変ありがたいのですが。でも、ちょっと困るところも出てきますね」 「困るって?どんなことかしら」 「つまりですね、学校で本格的な日本語を教えてもらい、学校以外でも別の日本語を教えてもらうということは、どちらもアヤは、僕にとっての先生ということになりますね。そうなるとやはり、アヤ先生と呼ばないわけにはいかなくなります」 「ハハハ、、、理屈からいうとそうなるわね。でもねマルコス、何もそこまで真面目に考えることはないのよ。学校以外では、教えるといってもいい加減なことを教えるわけだし、それは先生と呼ぶような価値のものではありませんから、そんな心配はしなくていいのです。マルコスのような、そういう考え方を、杓子定規的な発想というのです」 「シャクシジョウギとは、どういう意味ですか」 「融通がきかないということです。つまりね、頭が固いと言ったらいいのかしら。真面目すぎる人にはそういう傾向があります」 教会の話を聞くはずだったが、いつの間にか変な方向に話が飛んでしまっている。
しかし、このような他愛もない会話のお陰で、マルコスが持っていた緊張感のようなものは、すっかり影をひそめ、ごく自然な雰囲気になっていった。そのことにマルコスは安堵感のようなものを感じていた。このような調子なら、アヤとも特別な感情を持つことなく、彼女も言うように、お互いに友だちとして付き合っていけることになれば、それはそれで結構なことである。
が、一方で、同時に彼は、それでは何か物足りないようなものを感じ取っていた。ただ、その物足りなさが、どこから来るものであるのかは、この時点で彼はまだ、理解すらできていなかった。