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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(17)=「世界一の無医村に行かないか?」

細海さん夫妻(中央)の結婚式の写真。右が細江静男夫妻(浅海さん著『歳月』2007年、日毎叢書出版より)

細海さん夫妻(中央)の結婚式の写真。右が細江静男夫妻(浅海さん著『歳月』2007年、日毎叢書出版より)

 前節のバストス移住地での防疫対策を担った同仁会の細江静男医師は、1901年に岐阜県下呂町和佐で生まれ、慶応大学医学部で学んだエリートだった。細江医師の慶応大学同期には、のちに日本医師会会長になった武見太郎氏がいた。首相クラスの要人の主治医として知られる人物だ。
 大学時代の恩師が、第8回で紹介した宮嶋幹之助(みきのすけ)教授だった。ブラジル移民組合の要請により、1918年から7カ月間、北里研究所の寄生虫学の権威・宮嶋幹之助として、日系社会を調査・衛生指導したあの人物だ。
 現地で日本人が南米特有の感染症で苦しんでいることを熟知していた宮嶋は、若き医学生だった細江氏に「ブラジルの日本人入植地は、医師のいない世界最大の集落だ。君、行ってみないか」と声をかけ、それに乗って、1930年に外務省研修医として3年間の任期で赴任した。
 そのときの気持ちを本人は手記の中で、《ブラジル行きは自分一人の医師で決定したので、親父は当然許さず静子(妻)も寝耳に水で唖然としていた。話し合いの結果、二人の子供は置いてゆく、という条件で許してくれた。子供を置いてゆけば必ず3年で帰って来るだろうと思ったらしい。私もこの時は一生いるつもりはなかったのだが…》(『細江静男先生とその遺業』(刊行委員会 浅海護也編、1995年、139ページ、以後『偉業』)とある。
 日本人集団地を良く知っていたからこそ、細江のような逸材を送り込んでくれたのだろう。野口英世は有名人だけに何かと取り上げられることは多いが、日系医療への貢献という意味では宮嶋の方がはるかに繋がりは強い。
 細江は当時から、まさに「同仁」(わけへだてせずに、多くの者を平等に愛すること)の精神にあふれた若者だった。
 学齢期になった娘2人を義母の元に残しての辛いブラジル赴任だった。もともとは3年の契約だったが、バストス移住地赴任中に永住を決意し、ブラジルの医師免許をとりなおすためにサンパウロ州立大学医学部に入学して苦学し、30年を過ごした。
 『遺業』によれば1944年8月頃、細江医師はすでに医師免許を取って正規診療をしていたにも関わらず、一時警察に拘束されたこともあった。《当時の日本語を話したと言う理由で引っぱられた人々と大差なく、多分、日本人の出入りが診療所に多かったことが影響したものと思われました》(PDF版279ページ)。だが1カ月ほどで釈放された。日本に残した長女は大戦中に亡くなり、二度と会えなかった。
 モジ在住の浅海さん(81歳、愛媛県出身)に細江医師との関係を電話で尋ねると、「彼の呼び寄せでブラジルに来た86人の一人です。細江先生はその一人一人の健康相談から結婚の世話なども焼いてくれた。無私の世界の人で、本人は医者とは思えないような貧しい生活をしていたが、まったく気にせず、周りの人のために尽くしていた。アクの強い性格ではあったが、親分肌の人柄から『細江道安』と呼ばれていました」と懐かしそうに振り返った。
 三重大学農学部に在学し、移住問題研究会に入ってブラジル移住に興味があった浅海さんは、1962年にたまたま細江医師の学内で講演会を開いた際に聞きに行った。細江医師は医学功労賞を受賞するために、妻と共に来日していた。
 当時、アマゾン巡回診療などを頻繁に行っていた細江医師は「アマゾン先生」の異名でも知られ、日本でその体験談を本として出版しており、その体験談を講演した。
 その講演に感動した浅海さんは、仲間と国鉄・津駅まで見送りに行った。駅のプラットフォームで浅海さんは思い切って「ブラジルに行きたいので呼び寄せてくれませんか?」と懇願すると、「二つ返事で快諾してくれた」と昨日のことのように思い出す。
 同仁会や日本病院の医師として多忙な生活を送る傍ら、日系青少年の育成にも心を注ぎ、1953年にはカラムル―・ボーイスカウト隊を設立し、ブラジル最大の同隊組織に育て上げるなどの貢献があった人物だった。(つづく、深沢正雪記者)


□大耳小耳□関連コラム
     ◎
 細江医師の呼び寄せでブラジルに来た浅海護也さんは、当初アマゾン川中流のサンターレンに入植するつもりで、「サンパウロは最初の一年ぐらいのつもりで来て、コチアにあったボーイスカウト訓練場の管理人をやったが、エバチッチ(肝炎)に罹ってしまい、先生の自宅のポロン(地下室)に3カ月世話になって病気を治した。その際、先生から『もうアマゾンにはかないほうが良い。サンパウロでがんばれ』と言われ、気持ちを切り替えました」と振り返った。細江医師の人柄が伝わってくるエピソードだ。