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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(18)=知らされなかった防疫策

コーヒーの花が咲く中で着飾って記念撮影する日本人家族(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館 高知県古市町)

コーヒーの花が咲く中で着飾って記念撮影する日本人家族(『在伯同胞活動実況写真帳』1938年、竹下写真館 高知県古市町)

 第7回で紹介した、鈴木南樹が笠戸丸以前の体験談を書いた『伯国日本移民の草分』(http://www.brasiliminbunko.com.br/Obras/143.pdf)には、実は次のような続きがある。
 ブラスの移民収容所の上司ビートはしたり顔で、《マレタ(マラリア)は早いうちであれば、注射の五、六回もすれば大方治ってしまうものです。只厄介なことに一年で根治することはむずかしいものであるから、翌年にも雨期が始まったらキニーネを飲むとか、注射をするとかすればもう安全です。それをむずかしくしてしまうのは、投げて置いて始めに二十四時―四十八時―七十二時とこういう風に規則正しく出る熱が、いつの間にかごっちゃになって絶えず発熱してどうすることもできなくなってから医者に診てもらうという風であるから重くなってしまうのです》(PDF版318ページ)と南樹に説明した。
 これは笠戸丸以前の頃だ。当時、医者に診てもらうことすら困難な開拓地で、高価なキニーネの注射を打つなど普通の移民には不可能なことだった。
 入植から半年間で80人もの貴い命をマラリア禍で失った平野植民地では1916年、発起人の平野運平氏は、キニーネを手に入れようと州政府に掛け合ったが入手できず、結局は土地代金に相当するような借金をして買い入れたと『平野二十五年史』(平野植民地日本人会、1941年)にはある。
 いわく《平野氏ハ州政府農務局ニ此ノ窮状ヲ愬エテ、キニーネ錠剤ノ下附ヲ仰ギ弥縫一時ヲ凌ギ、尚又パウルー、ノロヱステ薬局ニ交渉シ、薬価先払ニテ薬品ヲ取寄セ、之レガ窮状二努メラレ、同局カラ買入レタル薬価ハ優ニ十三コントス七百ミルニ上レリ、常時ノ土地代金ニ相当スル額ニ達セリ。其ノ間犠牲者ヲ出ス事実ニ七十名ノ多数ニ及ベリ》(PDF版33ページ)
 しかし、鈴木南樹の件の本には、次のようなくだりもある。
 《「なァに、マレタなんて毎日カンジャ(鶏に飯を入れたソッパ)でも食べてぶらぶらしておればいいんだ。うむ、そうだ。マレタに一番いいことを教えましょう。それは高燥な健康地に転地するんですね。マレタなどは二三日で吹き飛んでしまうぜ」。ビートはこういってマレタなど気にする私の心が理解できないという風であった》(PDF版320ページ)という認識だった。
 さらに《サンパウロ州でマレタに罹りやすいところは、パウリスタ線でモヂ・グアスー川の下流地方、ソロカバナ線ではパラナパネマの沿岸にあるサルト・グランデ町方面、チエテ川の下流地帯等です。これらの地方波まだまだ衛生化されておりませんから、増水の終り頃からは余程気をつけなければ遣られるものと思わなければなりません》(PDF版319ページ)と説明した。

サンパウロ市ブラス区にある移民収容所の食堂(『南米写真帳』1921年、永田稠)

サンパウロ市ブラス区にある移民収容所の食堂(『南米写真帳』1921年、永田稠)

 恐ろしいことに、まさにそのような地域に戦前の日本移民は入って行った。知識あるブラジル人なら避けるような危険地域だからこそ地価が安く、資金力がない日本移民には入植しやすかったという事情があったのだろう。
 危険地帯にも関わらず、初期移民にはそんなマラリア知識すら伝わっておらず、皆が苦しんだ。送り込みを担った移民会社を勘ぐった言い方をすれば、「知ったら行きたくなくなるから、敢えて知らせなかった」部分もあったかもしれない。
 1906年にブラジル到着した鈴木南樹は、水野龍に頼まれて「試験移民」となった人物であり、「送り出し側に近い認識」を持った人物だったのかもしれない。
 笠戸丸以前にこの情報が日本でも広く知れ渡っていたら、ブラジル移民志願者は大きく減っていたかもしれない。この本が出版されたのは、移住最盛期の1932年。マラリアなどの悲劇を乗り越えた後、もう後戻りできない段階で、初めて公にされたようだ。(つづく、深沢正雪記者)