高田政助という移住者が、ソコヌスコに農場をつくった。高田夫人が以前、内村鑑三家のお手伝いであったので、高田がこの農場を始めた時に、内村は祝福して次の歌を贈った。
内村鑑三といっても知らない人があるかもしれないが、アメリカ合衆国のアマースト大学出身で、日本において有名な、無教会主義のキリスト教信者として著名である。
アメリカ合衆国政府が排日移住法を制定したときに、アメリカ合衆国などに移住しなくっても、日本人は太平洋で発展できるといって憤慨した。
(1)エスペランサ、希望の野メキシコの南方にありソコヌスコの峰高く太平洋の水、潤し
(2)エスペランサ、希望の野わが教友の集まるところわが理想の行われるところ自由と独立の郷
(3)エスペランサ、希望の野新大陸の新日本聖書は鋤を助けて天は地を接吻す
高田は一人息子で、父から呼び返されたので、1918年日本へ引き揚げを余儀なくされた。その農場を譲り受けたのが、内村門下の三人の青年であった。
一人は移住を果たさず、他の一人清水繁三郎は熱心に農場の経営にあたったが、六年後不幸にも風土病に倒れたので、未亡人は二人の子供を引きつれて日本に引き揚げた。その長女の方が現早稲田大学教授清水望である。
1922年、清水夫人がメキシコに渡航するとき、内村鑑三は、「メキシコや、ポポカテペトロ、ソコヌスコ、旗風高く揚る十字架」という自詠自筆の短冊を送られた。買い受けた三人のうち、残る松田英二が個人で経営することとなった。
当時革命内乱の余波で、しばしば略奪されたので、松田は遠大な計画を立てた。農場労働者および村の青年を教育して、悪風を矯正するとともに文盲退治をすることにした。
なんといっても、村の青少年の心を改めれば、自然と略奪などに従事しないようになり、また外部からおそってきても農場を防衛するようになると思ったからです。
ところが、青少年のために学校を建てたが、親たちの中から反対がでて、青少年を学校によこさない。青少年を農業の手伝いに出せば、いくらか賃金がはいるからいやだという。
それで松田は、青少年を学校に出席させるために金を払ったのである。中等初年級程度の教育をほどこしたものが、27年間に1千人に達したという。全部この育英事業を農場の副事業として行ったのである。
そのうちに、松田は日曜学校を始めて、聖書の講義を行った。発足した当時は出席者は3人だけであったが、だんだん人数が増して100人になった。
メキシコは革命勃発以来、宗教の迫害が激しくなって、教会には神父の姿が見られず、神父の服装をして市中を歩けば暴行を加えられるような時代になったので、松田の日曜学校はカトリック神父からの抗議や妨害はうけなかった。
日曜学校では、宗教的儀式を行わなかったので、革命に従事した人々からも宗教と思われなかったのであろう。迫害が行われなかったのである。松田のこの道徳教育が時宜に適したことはいうまでもない。
顔に墨や石灰粉を塗って、略奪に押し入ったり、人殺しをやった村人やその子供たちが集まって賛美歌を歌ったりして、だんだんと悪事から遠ざかっていった。
きわめて貧乏な人々であったので、少しずつ貯金させて、日本の頼母子講のようなものをつくって、すすめてシンガー∙ミシンを買わせたり、裁縫や編み物の指導を行って、村人の教化が進んでいった。
それら婦女子の指導は松田夫人が担当した。松田は別に功利的な考えでこの事業を行ったのではないが、その影響が現れる機会がきた。日米戦争が始まったときである。
メキシコは、汎米会議の一員である。1940年7月パナマ宣言によって、米州の一国の保全もしくは不可侵または主権もしくは政治的独立に対する一国によるすべての侵略行為は、他の米州諸国に対する侵略行為と認めようという取り決めに参加していた。
メキシコは米州諸国と一蓮托生の決定に従って、日本に宣戦しなければならないこととなった。町長は、町民を広場に集めて、「日本は真珠湾においてアメリカ合衆国をだまし討ちにした。そしてメキシコの敵となった」と述べた。勢いあまって日本の悪口に及んだ。
黙々と前列で聞いていた老婆五人が、つと立ち上がって前進するや、壇上の町長を引きずりおろした。そして大声で叫んだ。
「国と国が理由があって戦争するならするがいい。それは俺たちの知ったことではない。しかし、この町にいる日本人の悪口をいったら承知しない。この町の入口の橋は、だれが架けてくれた? この町の電灯はだれがつけてくれたか? この町のあの大きな学校はだれが建ててくれた? みんな、この町の日本の移民がつくって寄付してくれたのではないか? お前のような恩知らずが町長をしていては、この町は栄えない。出直してこい」。
全町民が拍手をもってこれに応じた。この大戦中は、チャパス州の日本人の居住者は、州政府から、なんらきびしい取り扱いを受けずに生業を続けた。チャパス州在留日本人の指導者たちのメキシコ人との融和態度が実を結んだのである。
その指導者たちの中心はキリスト教に徹した松田英二であったのである。松田は、日本において最高学府に学んだひとではない。松田は台湾総督府立国語伝習所の校長も勤めた。
松田は、かねてから植物学の研究を志し、台北大学理農学部の植物学教室の研究室で、植物分類学の指導を受けたり、朝鮮、南満州、南九州において台湾植物の分布を調査したり、ジャワや、シンガポールなどでも熱帯植物を調べて歩いた。
メキシコに移住してから、南メキシコ植物学誌を編もうとして1936年、農場周囲の植物調査を始めた。調査の目鼻のつきかけたころ、アメリカ合衆国の学会に呼びかけて、滞在費、メキシコ国内旅費、見本採集費その他付帯経費は「希望農場」の負担として、学究に便宜を与えた。
きたる者、ミシガン大学、イリノイズ 大学、フィラデルフィア大学、ニューヨーク博物館の若い動植物分類学者たちであった。希望農場を中心として、その採集物の分類を行った。
ここは、亜熱帯植物採集の処女地であったので、学会にぞくぞく新種の発表が行われた。これと同時に、松田の研究はアメリカ合衆国諸大学の研究紀要に発表されることになった。
大戦後、メキシコ大学で植物学研究所を作って、アメリカ合衆国の大学の植物学研究雑誌を取り寄せたら、メキシコ植物に関する多くの論文が掲載されているのを見た。
大学では、これらの諸論文は誰の研究かと思って調べてみたら、チャパス州に住んでいる日本人の植物学者であることが分かった。
1947年、松田はメキシコ大学より生物学研究所正研究員に任ぜられた。松田に対しては、定年の枠外として、終身教授として厚遇している。現在までの業績は新種の発見六六〇種にのぼる植物標本と四〇〇〇にのぼる鳥類および爬虫類標本をつくっている。
東京大学に「南メキシコの植物生態学的研究」論文を提出して、1962年理学博士の称号を与えられた。まかれた多くの種子の中から多くの健やかな麦が育った。
松田英二は、そのなかでも、もっとも健やかな麦の一粒であった。メキシコの青少年の指導者となると共に、メキシコ植物学会の松明となり、日本人の優秀性を示すと共に、日本とメキシコの懸け橋となったのである。(著書『ラテン∙アメリカの日本人』より抜粋)