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日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(19・終り)=今こそ振り返る価値ある同仁会

細江静男医師(『細江静男先生とその遺業』より)

細江静男医師(『細江静男先生とその遺業』より)

 細江静男著『ブラジルの農村病』には、十二指腸虫病の原因となる寄生虫の一種ネカトール・アメリカーノについて、次のような歴史的に興味深い記述もある。
 大航海時代に連れて来られた黒人奴隷と共に、アメリカ大陸に持ち込まれた病気の一つが、寄生虫の一種ネカトール・アメリカーノで、「アメリカ大陸人を殺す」という意味があるという。
 《この寄生虫の中にネカトール・アメリカーノという、アフリカから、黒人ドレイといっしょに輸入された虫がある。ネカトールということは、マタール、つまり殺すということであり、アメリカに住んでいる人間を殺すであろう。また南アフリカやブラジルもこの寄生虫によりほろびるであろう、というほど恐ろしい虫である。まったく、無力無抵抗の奴隷をコク使した仇討ちをやられているようなものだ》(『農村病』PDF版21ページ)
 言い方を変えれば、大航海時代の黒人奴隷の呪いが、ブラジル人一般はもとより、巡り巡ってブラジルに移民した日本人をも苦しませた。
 先述の浅海衛也さんに、細江さんから医師を志した動機を聞いたことがあるかと尋ねると、「細江さんが生まれた頃の下呂には医者がおらず、いわゆる無医村。そんな村の人を助けようと医者を志して慶応義塾医学部に入学したと聞きました。そこで宮嶋先生から『ブラジルには世界一の無医村があるから行ってみないか』と言われて決心したと、本人から聞きました」とのこと。
 同時に何人も医者がブラジルに派遣されたが、当地では医者の免許がないと医療行為はできず、免許をとるためには医学部に入りなおす必要があった。そこでUSP医学部に入りなおして見事卒業した。当時、二世でも入学が稀な難問中の難問だった。
 《日本病院の建設に関する医者としての業務、および奥地の巡回、サンパウロ市における夜間無料診療所の開設、これが私の仕事である。昼は学校に行かなければならぬので、奥地巡回は祭日か日曜、診療所は伯人を使って夜間の開業である。
 建築事務、奥地巡回、夜間診察、通学と、まさに三人前の仕事だ。朝は五時起床、六時半には家を出て通学、診療を終わって帰宅するのは午後十一時。これを六年間やり抜いた》(『偉業』26ページ)という超人的な生活を送った。
 そうやってブラジルで根を張った日本人医師が組織した同仁会には1930年時点の陣容は次のようなものだった。
 サンパウロ市を中心とした活動をした高岡仙太郎、河田明、サントスの武田義信、バウルーの斉藤等・和歌子夫妻、リンスの今田求、アラサツーバの菊地円平、ペレイラ・バレット(チエテ移住地)の八木勝郎、プレジデンテ・プルデンテの内田利藤次、バストスの細江静男、アマゾン地方の笹田正数。
 特に同仁会創立者の一人・高岡仙太郎医師は、日本医大第1回卒業生で、1911(大正元)年に渡伯して、ブラジル医師国家試験を受けて合格した人物であり、後に続く細江ら日本人医師にブラジルの熱帯病の指導をしたことで知られる。そのほか、戦後は木原暢医師、二世の氏原マサアキ医師らも参加した。
 そのような名だたる医師がいて「世界一の無医村」を交代で回るだけでなく、現在のサンタクルス病院、サンパウロ日伯援護協会の基を作ってくれた。その活躍は、今のようなパンデミックのときこそ振り返る価値がある活躍だ。
 第2回で紹介した山田さんの言葉《過去を振り返れば、日系社会はこの新型コロナウイルスの問題以上の多くの困難を乗り越え、今日に至っております》には、はやり説得力がある。
 グローバル化時代のパンデミックは避けられない。移民はみな、それと格闘してきた。先駆者の歴史を忘れずに、今回のコロナウイルスとも共生していくことが、先人への供養にもなるのだろう。(終わり、深沢正雪記者)