コロナウイルスによる外出自粛の影響で、日常生活に最も弊害の出た社会集団の一つが、近年ブラジルに移住して来た世界各国からの難民と移民だ。今回は特別企画として、サンパウロの難民と移民にフォーカスを当て、パンデミックの間に引き起こされた彼らの生活問題や、難民にまつわる様々な状況についてオンライン座談会を開催した。
ホストは2018年5月からサンパウロ市の月刊ピンドラーマ(コジロー出版)で難民レポートを担当してきた大浦智子さん。参加者は難民・移民として暮らすジャン・カトゥンバ・ムロンダイさん(41歳、コンゴ民主共和国)、アブドゥルバセット・ジャロールさん(30歳、シリア)、カルロス・エスカローナさん(36歳、ベネズエラ)、特別ゲストに愛知県名古屋市在住で難民問題にも携わる弁護士・永井康之さん(2015年から4年間サンパウロでCIATE専務理事として駐在)を招待し、7月12日午前8時から開催された。
日本で難民問題に取り組む数少ない弁護士の一人、永井康之さんは、「日本ではまだ難民という存在がそれほど認知されているわけではありませんが、外国人の存在感はすごく大きくなってきています。また難民の認定率がとても低いことや、難民申請者が長期間に渡って入国管理局の収容所に収容されているといった問題についても取り上げられることが多くなりました」と、今回の座談会でブラジルに暮らす難民の生の声に大きな関心を寄せた。
全15回にわたって、座談会での話と追加取材した内容の構成で掲載する。(座談会の文責/大浦智子、翻訳/大浦聡一郎)
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――最初に、サンパウロで難民・移民として暮らす皆さんの簡単な自己紹介をよろしくお願いします。
【ジャン】コンゴ民主共和国のキンシャサ出身です。キンシャサ大学で土木工学を専攻し、技術者でしたが、子供の教育を支援するNGOも運営していました。
私は政治的迫害を受け、2013年に家族にも内緒でブラジルまで逃げ、難民となりました。私はコンゴのある政党を支持していましたが、他の党が選挙に勝ちました。私たちはデモ活動を行いましたが、大統領はデモを望まず、その地位に留まりました。
私たちが大統領の告発を始めると、大統領はデモ参加者を捜索し、逮捕し始めました。私も捕まり収監されましたが、刑務所から逃げ出しました。コンゴでは、刑務所からの逃亡者は死刑を宣告されます。私は国を去らなければなりませんでした。私は政治犯です。
――現在のお仕事は?
【ジャン】個人事業主としてランハウス(インターネットカフェ)を経営しています。
2014年にはNGOアフリカ・ド・コラソン(現PDMG- Pacto pelo Direto de Migrar)を設立し、その代表も務めています。私がブラジルに来た時、リベルダーデ地区付近のほとんどのブラジル人が、黒人移民といえばハイチ人と認識しているように感じました。
当時はハイチ地震後にブラジルが人道ビザを出したため、ハイチからの移民が目立っていました。もっとコミュニケーションを通して、難民と移民の文化的多様性に触れてもらう機会を作りたいと思いました。
同NGOは難民や移民の書類手続きをサポートしたり、ブラジル社会で難民への理解を深めてもらい、外国人嫌悪や偏見、差別をなくすために活動しています。
――あなたのランハウスはどこにありますか?
【ジャン】リベルダーデ地区のミッソン・ダ・パス教会(Rua Glicério, 225 – Liberdade)の近くです。この教会には、様々な国出身の移民が新しい仕事や家を見つけるまで一時的に生活しています。
店ではインターネット回線による国際電話がよく利用されています。カルロスと私が出会った場所でもありますが、カルロスはいつの間にか私から逃げてしまいました(笑)
【カルロス】ジャンは私が彼から逃げたと言いますが、私たちはお互いに知り合って3、4年になります。私はジャンのNGOが主催する難民サッカーワールドカップにも参加しました。それは素晴らしい体験になりました。
それは決してアフリカの人々だけのもではありません。ベネズエラ、チリ、コロンビア、ボリビアといったラテンアメリカの国々も参加するようになりました。多国籍の難民移民の間でとても良い相互作用があると思いますし、サッカーを楽しむ以上に難民が受け入れられるという意味合いが含まれています。(続く)