「ところでね、アヤ、今までのあなたの説明が本当に僕に分かったのかどうかということですが、つまり、ここに移民してきた人たちというのは、日本では珍しいキリスト教信者のグループということですね。そういう人たちがこうして同じ所に入って、生活を共にしているということなのですね。そういう解釈でいいですか」 「そうね、その考え方で間違いないわね。同郷の人たち、親戚の人たち、同じ宗教を持つ人たち。そういう人たちの集まりといっていいでしょう。
それだから、ああいったクリスト・レイ教会のようなものが、みんなの力で出来上がったということなのね。あれはやはり、そういう求心的なものがあったから完成したともいえるでしょう。それだけ、ここに住む人たちは団結心が強いということね。これにはやはり、過去の歴史が大きく影響していることは間違いないわね。私たちと直接には関係ないけど、私たちの先祖が昔、迫害によって苦しめられた事実が、私たちの中にずっと残っているような感じもあるわ」 「じゃあ、それは、簡単に消え去るものではないということですか。その、何百年も昔のことが、完全にはなくならないということは、それだけの、何と言うか、憎しみのような感情が生き続けているということですか」 「ううん、そういう憎しみというような感情はまったくないわ。そういうことではなくてね、どう説明したらいいのかしら。つまりね、虐げられたことによって生じてくる、団結心とか、我慢強さとか、もっと難しく言えば、精神的な心の張りというか、そういう強さが自然に備わっているというふうなものね。そういうものが、私たちの中にはあるということね。それは、外からは、たとえばマルコスのような人たちからは、簡単には見えないものだし、理解もできないのじゃないかしら。それだけ心の中がちょっと複雑ということね」 話が思いがけない方へ向かっている。
それは、マルコスが想像していたものを、あっさりと超えてしまうものであった。あの教会の持つ不思議さは、かなりの神秘性を伴っていた。遥か彼方の、東洋の端にある小さな国、日本において、すでに四百年ほども前からイエズス会によってキリスト教が布教されていたことは、彼にとって驚き以外の何ものでもなかった。
マルコスにとって、キリスト教と東洋の国々とは感覚的に結びつかないものがあった。それが、中国であれ、日本であれ、インドであれ、そこにキリスト教が存在すること自体があり得ないというような感じを持っていた。
それはあるいは、彼の東洋に対する無知ということになるのかもしれないのだが、とにかく彼の地で、全体から見ればたとえ僅かな数であるにせよ、キリスト教を信じる人々が存在するという事実が、信じられないほどのものであり、奇跡を見るような感じでもあった。
しかもそれが、このブラジルにも大きな影響を与えたカトリック教のイエズス会に繋がるものだということは、アヤも言うように奇妙な縁ともいえるものであろう。
しかし、それにしても。と、マルコスは考えざるを得ない。
たとえフランシスコ・ザビエルが、四百年も前に日本という、キリスト教にとっては未開の地に種を蒔いたとしても、たった一度のそれだけのことで、その後、今日まで絶えることなく、それが生き延びてきたということは、にわかには信じられないほどの出来事である。