シリア内戦を逃れて渡伯
――パンデミックになってから、ジャンさんやアブドゥルさんが所属しているNGOアフリカ・ド・コラソン(現PDMIG)では、セスタ・バジカ(基礎食料セット)や衛生キットを配布する活動に積極的に取り組んでこられていますね?
【ジャン】NGOが力を入れてきた難民ワールドカップや講演活動など、今年は人の集まるイベントは実施が難しいです。オンラインのイベントや会議は行っていますが、セスタ・バジカの配布がリアルに人と人をつなぐ主なイベントとなっています。
パンデミックの収束が見えない今、多くの難民と移民の家族は、食料がなく、ポルトガル語を話せず、家賃を支払うお金もなくなっています。NGOでは「難民と移民のための連携SOS」と??いうキャンペーンを通じて、ポルトアレグレ、フロリアノポリス、クリチバ、サンパウロ、リオデジャネイロ、ブラジリアでもセスタ・バジカを配布し、有志の寄付とボランティアによって7月半ばまでに登録制で約2500箱が多国籍のブラジル居住者に届けられました。
――アブドゥルさんがブラジルで難民となるまでの事を教えてください。
【アブドゥル】シリアのアレッポ出身です。2014年2月にブラジルに来て難民申請し、1年後に認定されました。商家に生まれ、シリアでは13歳から携帯電話などを販売し、自分の店も家も所有していました。
経営管理の勉強をしていましたが、20歳で1年の兵役の義務のために中断し、その最中、シリア戦争(2011年)が始まりました。徴兵されてダマスカスに配属され、戦時中はジェネラルの運転手をしていましたが、兵舎が爆撃され、一緒にいた多くの仲間は亡くなりました。
私も脚と鎖骨を骨折しましたが、レバノンへ逃れ、カナダ、オーストラリア、ブラジルの総領事館に行き、難民としてすぐに受け入れてくれたブラジルに避難することになりました。シリア戦争後、母親と7人の兄弟姉妹はシリア、トルコ、カナダ、ドイツ、イラク、レバノン、カナダと離散してしまいました。
――アブドゥルさんはコロナウイルスでお母様がお亡くなりになられたそうですね。
【アブドゥル】はい。2018年12月、シリア戦争が始まってからもアレッポに残っていた母と末妹をブラジルに呼び寄せることができました。多くの方がブラジル生活に慣れるように彼女たちをサポートしてくれましたが適応できず、うつ状態になる日も増えていました。結局2月末に妹はレバノンに戻り、母も一緒に帰国する予定でしたがパスポートの期限が切れていたため、更新手続き中でした。
母は3月中旬から頭痛や全身の痛みを訴え、多い時はSUSの病院に週6日も通いましたが、問題ないと言われ続けました。結局、最後に行った病院でコロナウイルスと診断され、クリニカス病院に入院しました。
4月24日、ちょうどラマダンが始まる日でした。イスラムの習慣でラマダンには貧しい人に喜捨をするのですが、それをするように言い残されたのが最後の言葉でした。それから約3週間後、5月13日に天に召されました。享年55 。クリニカス病院の職員の方々には大変良くしていただき感謝の言葉しかありません。(続く―)