コロナ禍で学んだ、「他人と対面できないことの苦しさ」と、「家族が対面して食べることの大切さ」
(1)他人と対面できないことの苦しさ
通りに人々が蠢き始めた。
4カ月に及ぶ「3密」を回避する生活で、何が一番辛かったといえば、それはやはり「人に会えない」ことだった。デジタル社会はたしかに便利である。
オンラインでの画面越しの対話や、携帯電話の小さなキーボードに、文字を打ち込んで日常の様子を交換する等、確かに便利ではある。だが、実際に対面して、互いの顔色を窺い、ちょっとした表情、息遣いや、ぬくもりの感覚を感じとるのは、機器を通しては難しい。
このたびのコロナ禍では、実に多くの事を学んだ。反省したり、見直すこと多かったが、これまでのような「当たり前の対面して営む日常生活」ができないという不自由さは、最も辛く感じたことだった。
そしてもう一つは、朝昼晩、家族がテーブルを囲んで、対面して食べることの意味の再確認であった。人類のみ、進化の過程で、食べ物を分け合い、対面してモノを食べることを伝統的習慣としてきたそうである。
特に人間社会の家庭においては、それが当たり前だったが、現代人は、最小単位の家族という社会の他に、仕事や学校、趣味、グループといった外部の社会に属することになり、伝統的な家庭での食事形態が変化した。
家庭内でそれぞれが、いろんな都合でともに食卓を囲めない。また、コンビニなどで、自分の好きなものが買って食べられるので、あえて一緒に同じものを食べる必要がない。すると、家族が顔を合わせても、言葉を交わさなくなる。食卓の片付けも手伝わない。目の前の料理に美味しいといった一言もない。
日本では、コンビニのインスタント食品の強い味付けに舌が慣れているので、なんにでも醤油、塩を振りかける。おにぎりとコーラを昼ごはんにして、使い捨ての容器をポイと投げ捨てる。お皿の洗い方を知らない人が増えているという調査結果まで報告され、驚いたものだった。
突然、外出自粛によって、現代人は否応なく食材を買い込み、自分で料理して、家族で食べる、という伝統的な家庭生活に引き戻されたのである。結果的に、家族の団欒が増えた、料理するのが楽しくなった、という声も上がった。もちろん、真逆の声も大きいのであるが。
現代社会のように、家族が同じ食卓を囲んで食事をすることが少ないというのは、霊長類研究からいえば、これは人類の進化の過程から外れた行為になるらしい。
なぜなら、モノを分け合って食べる、飛沫を飛ばしながら近くで話す、それが人間にとって「ヒト」たる所以とも言える本質的な行為であり、特に、人間は、「相手の目」を直に見ながら、そのつながりを保っている、ということだ。
人間は、相手の目を見て繋がる生き物
詳しく言うと、人間の目には「白目」があり、私達は相手の白目を見ることによって、その内面の動きを読み、探っている。それが言葉よりも重要である、ということだ。
まさに、「目は口ほどにモノを言う」のである。美味しいものを頬張ったときの美味しいという表現は、目に現れる。怒りに満ちた感情は、目から吹き出すということだ。日本語の「目」に関する熟語の多さを見ると、それが「一目瞭然」である。
さらに興味深いのは、人間だけにある「白目」の働きである。
それでは如何に、「目」、それも「白目」が人間関係に大きな影響を与えるか。
人間は自然の中では一つの種に過ぎない。60年代のハリウッド映画「猿の惑星」のタイトルは「プラネット・オブ・エイプス」であったように、英語ではApes・エイプス(ヒト科、ヒト亞科)という言葉を使い、「類人猿」という日本語での分類より更に厳密に分けられた印象の言葉が使われている。
世界的に著名な霊長類学者.京都大学総長の山極壽一先生の多くの著書で、山極先生の話によると、チンパンジー・ゴリラ・オランウータンはヒト科であるが、中でもオランウータンが最も人間に近いらしい。なぜなら、幼児から成長するに従って顔が変わること。
顔つき、いわゆる顔貌の変化にその年輪が刻まれるというのが、人間の成長過程とよく似ているということだ。また、ゴリラや、チンパンジーになくて、人間とオランウータンに共通するのは、「凝視(じっと相手を見つめる)する」行為だという。
確かに、薄くなった頭をなでながら、じっと遠くを見ている年老いた「森の哲人」・オランウータンの丸まった背中は、人間でいえば「人生の達人」といった壮年の背中を彷彿とさせるではないか。
霊長類の研究の興味深いことは、人間と同じ種同士の比較観察によって、それぞれの特徴や、文化の仕組みなどを、自分のこととして学ぶことができることである。特に、「人間だけにある白目」の働きである。
これは京都大学野生動物研究センター教授の幸島司郎先生らのグループによる発見である。数年前に大いにマスコミで話題になったが、今回のコロナ禍でこの話を思い出した。
それは、「人間だけにある白目は、相手の心にどのように作用し、目を見ない、目を合わせないことが日常社会生活の対人関係にどういう影響を及ぼすか」という研究である。
なぜチンパンジー・ゴリラ・オランウータンは「黒目」だけなのか
顔の中の目の位置、目の中の黒目の位置、虹彩(瞳)の色などは、自分以外のものにその動態を顕著にするものらしい。確かに、どんなに目が良くても、自分の目の動きを自分が見ることはできない。だから最も率直に心の動きを、相手に知らせることになる。
黒目といえば確かに、チンパンジーやゴリラ、オランウータンの赤ちゃんの目はクリクリした黒目がちで可愛らしい。厳密には、彼らには「白目が無い」わけではなく、「白目の部分」が黒目に近い褐色で人間ほど白くない、ということである。
白目が白くないことは、自分がどこを見ているかを明確にしない。相手が自分の顔を見ているのか、自分が食べている食べ物を狙っているということを分かりにくくするための、「視線の先、黒目がどこにあるか」を分かりにくくするためである。
また、相手を凝視するのは、オランウータンと人間であるということ。太古の昔に人間が森から出て、捕食動物が多い草原に進んでいったこと。そこで左右に目を動かす、水平方向を見るスキャンの幅が広がったことにより、人間の目が異常に横長で、しかも物事を「凝視」という、あえて視線を強調するといった、複雑なコミュニケーションプログラムを持つことに関係しているのではないかということである。
(2)家族が対面して食べることの大切さ
ちょっと前まで、「お一人様」という現象が持て囃されたが、それは、互いが対面して接する頻度の強い繋がりから一時的に離れて、自分だけの時間を創る。あるいは、伴侶を亡くしても孤独に陥らせず、多様で価値的な生き方を推奨する一つであった。
その大前提には、何らかの戻れる場所、所属、「対面でのふれ合い」ができる人々がいるという、安心感の上での無意識のつながりが儼然としてあったのである。
霊長類学研究は現代社会を考える上で、非常に大切なことを教えてくれるが、その中から、突如強いられた家庭生活にまつわる話を.前出の山極壽一先生の話から読み解いてみた。
人類は「食物の分配と共食」が始まる前に「共同保育」があった。この共同作業をすることによって、人間は認知能力を段々と高めながら「共感」や「同情」という能力を発達させて、広範囲で複雑な人間関係を築き上げた。
「食物の分配と共食」は、その共同保育を進める上で大いに貢献した人類特有の能力である。人類は、気前よくみんなで食物を分配して平等に食べるということをしながら、相手の食欲を自分のものにすることで共感能力を発達させていった。
サルは一緒に食事をするということをしない。ゴリラやチンパンジーはときどき食物を分配するが、食物を仲間のもとへ運んで一緒に食べるということはない。食糧が豊かで安全な場所では、食物を運ぶ必要がないからである。
対面で一緒に食べるという経験を共有する人類の祖先は、ほかの類人猿よりもかなり複雑で大きな社会を運営できるようになったのではないかと考えられる。
つまり人類は、森を出て、危険が多い草原地帯で暮らすようになったことで、現在の家族や社会の原型ができた。そうして、「身体と脳」を「共同作業と言葉」を使ってつなげることを覚えた、ということである。
脳だけでは得られない信頼関係や共感
現代社会の危機はどこにあるか
ここで、家族が一緒に食べることが減少した現代の危機を、次のようまとめてみた。
現代社会のコミュニケーションのあり方は、通信機器の発達やインターネットの登場で、身体から切り離されて脳だけでつながるようになった。しかし、人間は、一緒に何かした「経験」がないと信頼関係がつくれない。
今、不特定多数の人々との関係が広がっている。因って、信頼関係がない人たちとのトラブルを避けるためにさまざまなルールができた。しかし、少子化や孤食化によって、家族や共同体から守られるのではなく、自分で自分を防衛しないといけなくなったから、ルールオンリーの社会になりつつある。
そうやって孤立し、漠然とルールに従っていると、人間は考える力、決定する力を失っていく。いまの子どもたちは、そういう危機的な状況に晒されている、ということである。
これらは、とても説得力があり、このまま進んでいくことに、不安を覚えるのである。
携帯電話片手に食事する人々
もう数年前のこと。ファミリーレストランで、息子家族とともに、料理の注文をしていたときのことであった。隣の母親と娘の仕草が非常に気になった。二人は、座席につくなり携帯電話を取り出し、一言も喋らず、文字を打ち込んでいる。ウェイターの若い青年が来て、注文を聞いた。
すると、二人の指が猛烈な速さで動いた。二人はメニューを指差した。一度もウェイターの顔を見ないし、言葉も発しない。電話機の端がコップに当たって水がこぼれ、慌てて拭いているウェイターに御礼の一言もない。
しばらくして、二人は携帯電話のやり取りで注文の品を決めたのだった。料理が運ばれ、片手にフォーク、片手に携帯電話で、最後まで、料理も見ず、一言も交わすことなく、黙々と食べ終え、レジで母親が精算を済ます間も、娘はひたすら携帯の画面を見ていた。
隣の席の私の家族は、一部始終に唖然とするばかりで気持ちが落ち着かない。他人事ながらこちらまで何となく重たい気分になった。そのうち、「一言注意を!」という顔つきになった私の腕を嫁が突いて、「知らん顔をしてください。通じませんから」と窘められた。
要するに私がしようとしたことは、余計なお世話で、「キレる老人」に似た振る舞いになるから、というのである。
これは、たまたま私が遭遇したことであり、こういうことが現代人のすべてでは無いことは承知しているが、どうぞ、この母娘が外出禁止の日々で、互いに言葉を掛け合いながら、料理を作っていてほしいと、また余計なことを思ってしまった。
もうすぐしたら、ちょっと前までと同じように、当たり前のように出かけられる日が来るだろう。その時私たちは、コロナ禍で経験したことを活かせるだろうか。それとも社会全体が、再び、元の木阿弥に戻るのであろうか。
コロナ後の社会のあり方の議論が始まっている。今回、人間とは、社会とは、家族とは何かを問い直し、そして未来社会を考えていく必要のために、人類に近いサルやゴリラから人間社会を眺めてみるという霊長類学研究を読み返して、非常に示唆に富んだ内容は、重要なことばかりであった。