※『ラテンアメリカの日本人』(原題:The Japanese in Latin America、ダニエル・マスターソン/サヤカ・フナダ=クラッセン共著、米国イリノイ大学出版部、2004年) より抜粋
ヘミングウエーがノーベル賞をもらったときにたずねていったことがある。彼はハバナ市(キューバ首都)の背後にある小丘陵の上にあるスペイン時代のとりでに住んでいた。家屋そのものとし ては、客間が広いという以外普通の家であった。
昔の物見台を改造したのであろう。家屋の隅にぽつんと突き出している塔のようなものがあって、四方がガラス窓になっていた。原稿を書く部屋として使っているといった。庭には猫が20匹あまり遊びたわむれて、木に登ったりしていた。
客間の窓に沿って三角形に低い書棚が置かれて、そこから3冊日本語の書物を取り出してきて見せたが、それは彼の小説の翻訳であった。
「私に釣りを教えたのは日本人である」と突然いった。
『老人と海』という彼の小説があることを知っていたので私はちょっと驚いた。
「どこにその日本人はいるんですか?」と聞くと、「いまはバタバノに住んでいる。キタサキという人だ」と答えた。
バタバノというのは、ちょうどハバナの反対側の海岸にあり、鰹のかん詰会社のある町である。同名の湾内はよい海綿を多量に産出するので世界的に有名である。ケネディが亡命キューバ人を侵入させたのはこの湾である。
もちろん侵入より前のことであるが、私はヘミングウエーに教えられた通りの道順を通って、北崎マヌエルをたずねた。
北崎は博多湾に臨んだ北崎村に生まれ、17歳のとき親戚の者を頼ってメキシコへいったところ、到着早々革命が始まって、革命に強制的に編入させられ、いろいろなところに転戦したが、人が傷ついたり、また殺されたりするので恐ろしくなり、脱走して、とうとうキューバまで来てしまった。
落ち着いた所はサンチャゴ市の郊外であった。この市は後にカストロが最初の革命の企てをしたところである。言葉はわからないし、就職の目当てがあるわけではなかった。建築場の日雇いに雇われたり、荷揚げの手伝いをしたりして、わずかな労銀をもらって暮らしをたてていた。
海岸をぶらついていると、海には魚がたくさん泳いでいるが、だれ一人として釣りをする人がいない。しかしスペイン人が多いので魚のかん詰めがよく売れていることがわかった。彼らにひとつ生魚を食わせてやろうと思った。
付近に住んでいた日本人を集めて4人で計画を進めた。海辺の松を切り倒して小舟をつくった。釣りに出た湾内ですら相当漁獲があったが、湾の外へ出るとおもしろいほどとれる。舟が湾内に帰ってくるのを待ちかねて、人々は魚をかいにきた。これを聞き伝えて、あちらこちらから日本人が集まってきて漁業をする日本人は30人を越えるようになってきた。
日本人の漁業活動をじっと見つめているスペイン系のキューバ人がいた。北崎に話しかけてきて、いろいろ話し合っているうちに大企業化したらどうだろうと思うようになった。周囲の海の漁業調査をやったうえ、バタバノにかん詰会社をつくり、革命のおこるまえは4ダース入り20万箱を製造していた。もちろん原料の漁獲は北崎が中心であったが、北崎はキューバの青年を指導して漁夫に養成していった。
会社の事業がようやく軌道に乗り始めたときに、第2次世界大戦がおこって、北崎は他の日本人とともに松島(イスラ∙デ∙ピーノス)に集結させられた。北崎がいなくては、せっかくつくったかん詰会社は営業できなくなるといって、バタバノの有力者が北崎釈放の嘆願書を大統領に提出した。
政府は北崎の釈放をかなえたかったが、ごく近海で、キューバ船がドイツの潜航艇に撃沈されたばかりであったので、聞きとどけなかった。
カストロ政権になってから、北崎は政府の漁船に指導者として乗り込んだ。ときに76歳であった。農地改革委員会発行の雑誌に、人目にわからぬ魚群のありかを探る北崎の勘のよさがたたえられている。
キューバにおける日本人漁夫の声価は高く、カストロの政府になってから、1963年75人、1964年44人、1965年110人、1966年4人、1967年2人、1968年43人の日本人漁夫を雇い入れて、鮪漁船に乗り組ませて、指導的に漁撈をさせている。
これはキューバの漁業公団が個人と契約して呼び寄せているもので、以前は神奈川県三崎の人々がいったが、現在は100人余り高知県室戸の漁夫が参加している。ただしこれらの人々は一時的な契約であって、移住者のうちには入れられない。
永住の日本人がいちばん多く住んでいるのは島の南方にある松島(イスラ∙デ∙ピーノス)であって200人ぐらいいるかと思う。この島は、中南米がスペインの領有下にあったとき、本国へ運ぶ金銀をイギリスの海賊が略奪して、略奪物を埋没保管した島といわれ、金貨が掘り出された事がある。スチィーヴンソンの「宝島」のモデルにされた島といわれている。
1898年米西戦争があって、4年後にキューバは独立したが、アメリカ合衆国は、松島の処分を1927年まで決定しなかった。いよいよキューバの手に渡ることが決定したとき、全島は松林でおおわれていた。アメリカ海軍の海軍基地にする計画があったので、だれも開拓しなかったのである。
全島の松を伐採して耕地にしたのは日本の移住者の手によるものである。海軍基地にする計画がなくなって、キューバ政府で自由に使ってよろしいということになって、島の松原は多くの有力者が分譲をうけた。
別荘をつくるのに適当な敷地と思われたが、造成する必要があった。分譲を受けた人々は、勤勉な日本人に目をつけた。そして、松原を伐り開いたら無料で貸し付けるといったので、キューバ全島に散在していた日本移民が集まってきた。
そして島の北部から松の木を切り倒して、まだ根が残っているのに、種を撒いて農業を始めた。畑仕事のほかに残っていた木の根を丹念に抜いて、可耕地をふやしていった。三年ほど経って、よい耕地になったときに、地主は必要だから返してくれといった。
しかし、まだ松林は南の方に残っているからそれを伐ればまた無料で貸すといった。そういうプロセスを繰り返して日本人はだんだん南の地域に移っていった。わずかの貯金で最後には土地を買い取って自分のものとした。
日本人の誠意を認めたキューバ政府は、便利の悪い南の耕地から、その生産した野菜をヘリコプターでフロリダに輸送する計画を立てたことがある。それらの日本人は、いま島の南に農業協同組合をつくって果物や野菜を栽培しており、立派な小学校まで建てた。カストロの革命が成功してから、農協の経験者がいなかったので、その知識を提供して革命政府に協力した。
統計にあらわれない日系人やキューバ人との混血もだいぶいるから、その人数は相当増すものと思われる。松島のへローナ市には、日本人の共同墓地があって、お盆にはキューバ本島の日本人も参集して供養を行うのである。