インテリ系としては、通訳5人男を輩出した東京語学学校(現東京外大)からは、鹿野久市郎、渡辺考、安藤潔(アンドウ・ゼンパチ)、内山勝男らの邦字紙を支える重要な人材が生まれた。
またキリスト教系統の人材としては同志社大学神学部関係の西原清東、週刊『南米』の星名謙一郎、初の啓蒙雑誌『市民』を創刊する小林美登利、同校卒業生で『国民新聞』記者として活躍してから外交官になった古谷重綱らも特異な一系統をなしている。
北米転住者のもつ苦い経験と、大学出のコスモポリタンの元気の良さが邦字紙社内で合わさって、現地の報道や同胞社会世論を咀嚼しながら、あるべき移民の理想像を暗中模索し、邦字紙を通して一般移民を啓蒙するという図式が生まれた。
①最初の邦字紙・週刊『南米』
1915(大正4)年7月にサンパウロ日本帝国総領事館(松村貞雄総領事)が開設され、その翌年の1916(大正5)年1月に週刊『南米』が星名謙一郎(当時、50歳)によって創刊された。後続の邦字紙創刊者の大半が20~30代だった中で、先導者として図抜けた存在感を放っており、その人生には新大陸を股にかけて活躍する日本移民のバイタリティがあふれている。
実は1914年頃、のちに日伯新聞を創刊することになる金子保三郎は、星名に新聞創刊の相談をしている。金子は「此のおやぢ金を持ってゐるに相違ない」と半ば相談のつもりで、星名に「新聞を初めたいと思つてゐるが活字を注文する金がなくて困っている」と話した。
すると星名は「君、新聞を出すのに活字は要らんよ。謄寫版で四、五回も出して御覧、移民會社が金を呉れる、其金で買ふのさアハヽヽヽ」というが、金子はその返事の意味がよく理解できず、「今の時代に謄寫版と言う譯にも行きませんよ」と応じたのみだった。
その結果、金子の活字の金策に難航している間に、星名が週刊『南米』を始めてしまった。輪湖俊午郎はその間の事情を、「曾て金子に智慧づけてくれた此星野が彼に先き廻りして『週刊南米』を發刊しようとは夢にも考へて居なかつた」 と説明する。
実は星名は週刊『南米』創刊にさかのぼること約20年前、ハワイで最初の日本語新聞経営に携わった経験を持っていた。1887年、東京英和大学(現青山学院)卒業後、中国上海へ。移植民に興味を持つようになり、1891年までに契約労働者としてハワイに渡った。甘藷農園ではたらき、労働条件改善のためにストライキを先導したりしている。キリスト教の伝道でも活躍し、1895年からホノルルに出て、税関の通訳をしながら日本語新聞を発行していた。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)