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日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(7)

アルバレス・マッシャードに現在も残る日本人墓地

アルバレス・マッシャードに現在も残る日本人墓地

 星名の新聞は厳しく移民会社を批判し、あるべき植民地建設の理想を謳い、実際に自ら梅弁植民地を企画して自社広告で売り出し、競合が増えてきたところで使命を終える。つまり邦字紙は思想的にはオピニオンリーダーでありながら、経済的には植民地の土地売り広告を掲載する媒体(メディア)だった。
 少なくとも1918年12月14日号までは刊行された。その間、3年ていどと短命だが、邦字紙の存在意義を移民に理解させ、右往左往していた競合者をやっきにさせた点で大きな使命を果した。
 1918年11月30日付けには「日本人墓地の必要」との社説が掲載され、「悪戦苦闘、つぶさに辛惨(編註=酸か)をなめて我等後進者の前途を開拓した無名の勇者をして、せめて死後の安泰を得しむることは、我等在留者が責任を持って当たらねばならない訳ではないか。(中略)日本人専用墓地の必要は、既に空談(編註=ママ)の余地はなくなっている」と論じている。
 アルバレス・マッシャードに現在も残る日本人墓地があるのは、この考え方に基づいていることは容易に想像できる。
 ハワイ最初の邦字紙の経営に携わり、その後、ブラジルでも最初の邦字紙を創刊した。海外最大の日系集団地の双方で、そのような功績を残したのは後にも先にも星名一人だ。

②『日伯新聞』

 前述のように最初に邦字紙創刊のアイデアを持ったのは金子保三郎であり、週刊『南米』より先に発行の準備を進めていたが、活字にこだわるあまりに星名に先を越された格好になった。
 サンパウロ州政府から渡航費補助を打ち切られ存亡の危機に瀕していた移民会社は1916年3月に合併し、ブラジル移民会社(後の海外興業株式会社)を組織し、同年8月に支配人の神谷忠雄は向こう4年間で2万人、サンパウロ州政府から渡航費の一部補助を受ける形での移民導入契約を結んだ。
 移民の大量導入決定を受けて、金子保三郎は8月31日の天長節をもって石版刷りの週刊紙『日伯新聞』(住所Trav.de Castro,18 S.Paulo)を創刊した。
 編集を担当したのは一時期、週刊『南米』に席をおいたが、すぐに金子と合流した輪湖だった。北米時代に「ロッキー時報」記者などを経験していた輪湖は、金子と同年代であり、当時まだ26歳ぐらいだった。
 「日伯新聞社は地下室にあつた。表の部屋は工場兼編集室で、其次ぎの一室に金子の家族と彼が寝起きしていた。移民地の初期に應はしい貧民窟其儘(そのまま)の生活ではあつたが、希望は輝いて居たのであった」 という状態だった。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)