ホーム | コラム | 特別寄稿 | 特別寄稿=菅内閣誕生で川合昭の出番だ=アチバイア 中沢宏一

特別寄稿=菅内閣誕生で川合昭の出番だ=アチバイア 中沢宏一

菅義偉第99代総理大臣(State Department photo by William Ng / Public DomainU.S. Department of State / Public domain)

 安倍首相が引退され、その後継者として菅義偉氏が第99代総理大臣に選ばれました。選挙区は横浜ですが、出身は秋田県南部湯沢市雄勝です。安倍政権を7年8カ月間、官房長官として支えてきました。その実績を評価され岸田、石破両候補に大差をつけての圧倒的な支持を得ての当選です。その菅新首相と川合昭前秋田県人会会長は特別な関係にあります。
 4年半前の県連会長選のとき、私が川合氏を推したのは菅氏を通してブラジル日系社会と日本との関係強化を望んだからでした。しかし受け入れられず、6月には秋田県人会会長を高齢を理由に引退を迫られ、辞めざるを得なくなりました。誠に残念でなりません。
 川合氏は、地下鉄ビラマリアーナ駅前の会館改装を県から2回にわたり2700万円を引き出し、エレベーター付という立派な改修工事を完成させ、しかも60万レアルの預金を残しました。
 川合氏にはこれから悠々と、県人会及び県連を通して日伯関係を充実させ、日本政府からの何らかの援助でもってブラジル日系社会の確固たる基盤を作ってもらいたかったのです。そして、この度の菅首相誕生で、川合昭の出番が来たと思いました。
 援助前事務局長の足立氏が、この紙上でもってブラジル日系社会を代表する組織構想を発表して、その準備をされていますが、川合氏に外交の役割を依頼して活用すべきと思います。又ブラジル県連はこの機会を逃さず、川合前副会長を日本との交渉のための特別な役職に推して協力を請うべきと思います。
 さて、菅首相の出身地・雄勝地方は平安時代の歌人で世界三大美人と称される小野小町の誕生の地です。菅一族からは戦前戦後の実業家菅礼之助は石炭長官、東京電力会長、電気事業連合会会長などを歴任し、戦後のエネルギー分野での日本の復興を支えた方です。ちなみに、ブラジル日系社会の医師第一号高岡専太郎及びアルファヴィーレの高岡一族は雄勝出身です。
 ところで、菅首相誕生の機会に、雄勝から一山超えた東北地方の中央部で盛えた世界文化遺産・平泉の成り立ちの中で、安倍主相と菅首相との関係を東北人の視点から、その歴史を辿って見ます。

安倍・菅両氏は奥州平泉文化の申し子

 東北の原住民は蝦夷、えぞ・えみし(アイヌ人)と呼ばれていました。本州で最後まで残ったのは北上山系と三陸海岸でした。私の母は三陸海岸の山手で、鉢巻をすると正にアイヌの女性です。ですから、私はアイヌ系を自称しております。
 「蝦夷征伐・征討ち」という言葉がありますが、これは中央からの見方で、蝦夷から見ると侵略されたのです。平定、同化が正しいと思います。
 大和朝廷が東方に勢力の拡大を進め、奈良時代に律令国家日本が形成されるに到って、712年には出羽国酒田(山形県)に国府が置かれ、724年には陸奥国多賀城(宮城県)に国府が設置されました。両国を統括する政治的軍事的中心には陸奥国側多賀城に置かれました。
 菅首相出身地・雄勝(秋田県内陸)には733年雄勝郡が設置され、759年には雄勝城に昇格しました。同時期に秋田城が設置されています。陸奥側は宮城県北部には出羽より遅れて750年頃、岩手県南部胆沢城は802年、804年に志波城(盛岡市)に設置されました。
 794年、京都に都が移り、平安時代となりました。当初は律令制度が奈良時代に続き機能しておりましたが、徐々に中央から統制が全国的に弛緩してきて荘園武家が力をつけ豪族が出現してきました。朝廷は税の確保寄進貢物があれば、国司らに地方自治を委せました。都には末法思想が広まり都は荒れてきました。
 その時代背景の中で、奥州には陸奥の安倍、出羽の清原の豪族が頭角を現してきました。前9年の役(1051年~1062年)は、安倍頼良の時代になって納税をこばみ、反乱をおこした、とあるが、安倍側からすれば何らかの理由はあったのでしょう。
 1051年初めの戦いが宮城県鳴子でありましたから、安倍氏はかなり南下して支配地域を拡大しておりました。安倍氏の圧倒的勝利で終り、朝廷は陸奥守藤原登任を解任し、源頼義を任命しました。安倍頼良は朝廷からの恩赦を受け、6年間平穏な時代が続きましたが1057年源頼義が争いを挑発し、戦いとなりました。
 安倍頼良(頼時)が戦死し、長男安倍貞任が継ぎ、再び安倍氏が勝利しました。5年後1062年、源頼義は出羽国蝦夷清原氏を味方に取り込むことに成功し、貞任宗任兄弟を敗り、安倍氏は滅亡しました。11年間に及ぶ二つの役後も、朝廷側は直接この地を治めるのではなく、清原一族が出羽と陸奥の両国を統括することとなりました。
 しかも清原一族で内乱が起こり、それを平定する戦いが「後3年の役」(1083~1087年)でした。朝廷側は陸奥守八万太郎源義家が大将で沈圧しました。朝廷側についた清原清衡が父方の藤原を名乗り、平泉藤原の元祖となります。清衡には藤原清原安倍の地が流れています。
 歴史上で「乱」とは国内の内乱で、「役」とは外国との戦いを意味します。蝦夷地は朝廷側から見るとまだ外国でした。国府を置き、城を設置しても統治は蝦夷に任せ、税、貢ぎ物を徴収し、均衡を保っていました。
 源義家には役を平定したのにもかかわわず、朝廷からの恩賞が出ませんでしたが、父頼義が行った善行と同じく私財を将士に分け与えました。それによって前9年の役と後3年の役は、東国における源氏への信頼と忠誠心を育て、関東での確固たる基盤を作った戦いでした。そしてそれが鎌倉幕府誕生の布石となりました。

安倍首相は「奥州安倍の末裔」と自称

毛越寺ー山白王院所蔵の「三衡画像」。奥州藤原氏三代の肖像。上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡(江戸時代 、 毛越寺、/ Public domain)

 藤原清衡は父方母方妻子までも殺される戦乱の中で生きてきました。その供養のためにも、武力ではなく仏教の教えによる平和な国家建設を目差し、奥州における政治行政の拠点を形成して行きます。そして出羽、陸奥両国の押領使(おうりょうし)鎮守府将軍、陸奥守に就任することになりました。
 宋から一切経を輸入し、北方貿易を開始しております。この頃の都京都は益々朝廷の力が落ち、武家豪族が台頭して乱れ、平安末には源平合戦が続きました。藤原氏は金、銀、銅、良馬などの貢ぎ物を充分に納め、一定の距離を保ちながら交流しておりました。
 1094年平泉の建設に着手、多くの寺院を建て、1124年には金色堂を建立しております。2代基衡は毛越寺の造営、3代秀衡は平泉館の建設と平泉藤原は約100年続きました。
 京都に肩を並べるほどの都には政治、経済、宗教、生活が一体となる人口10万人の理想郷となり、今でも浄土式庭園として代表的な毛越寺の庭園がそのことを物語っております。17万騎と言われた強力な武力と豊かな財力を持ちながら、政治的中立を保ちつつ仏教による平穏な国を造りました。
 中尊寺の金色堂の輝きは、マルコポーロの東方見聞録で黄金の国ジパングとして伝えられ大航海時代新大陸発見につながりました。
 しかし、そのような理想郷も1189年、源義経をかくまった事で兄頼朝によって壊滅させられました。江戸時代の俳人芭蕉に「つゆ草やつわものどもの夢の跡」と詠まれております。
 私の父の出生地は平泉に近く、訪日の度に中尊寺に参拝してきましたが、平泉に行くと古里へ帰った安らぎを覚えました。よくもあの田舎の地に木造である堂を消失させないで約900年間も遺してくれたものと感謝し、祈ります。

中尊寺金色堂の覆堂(岩手県平泉町、竹麦魚(Searobin) / CC BY-SA (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/))

 蝦夷地の平定の戦いは出羽国国府酒田城、陸奥国国府多賀城設置から約500年間の同化への歴史がありました。平泉は2011年に世界文化遺産に登録されました。東日本大震災の年です。登録の最後の決め手は「戦乱で敵味方区別なく亡くなった全ての人を慰霊し、平和を求めた」でありました。
 安倍首相は「奥州安倍の末裔」と自称されています。管首相の出生地は平泉と同経度東北の真中に位置し、当時は奥州の平泉の文化圏の中枢でした。こうして歴史を辿っていくと「両氏とも平泉文化圏の申し子」と見ても無理のない見解と思います。
 平泉地方は江戸時代、仙台伊達藩でした。大槻玄沢など大槻一族は多くの学者を出し、斎藤実首相、台湾総督監督、関東大震災後の東京都知事の後藤新平。小沢佐重喜。椎名悦三郎など輩出しました。ブラジルでは菊地義治がおります。

さあ、川合昭の出番だ

川合昭前秋田県人会会長

 ブラジル日本移民100周年は2008年でした。その5年前から日本政府(総領事館)は日系団体との話合いを待たれていました。
 当時、私は県連の代表として出席させてもらっていましたが既に100億円の話が出ており、100周年の重要性を認識しておりました。
 しかし、5年間の時間があったにもかかわらず、主要団体で構成する委員会は、ブラジル日系社会全体の組織作りと拠点作りのプロジェクトを提出することがありませんでした。計画がなければ、出し様がありません。
 「お祭り」をしてお仕舞いでした。110周年も規模が小さく、基本的な改革はできませんでした。日系団体は二、三世に移り、一世の出番が終りました。
 しかし「これからも今の状態でいいのか」と問うと、誰でも心配しております。それは今の組織と建物ではブラジル日系社会がまとまり、それなりの活動ができないことが明白であるからです。
 幸いにも日系社会に精通している足立氏のプロジェクトは大きいし、下本八郎氏が進めているグアルーリョス国際空港前のパルケ・ダス・ナッテス計画もあります。
 サンパウロにある県人会の各会館、及び諸施設を担保にすれば、経営力のある援協が中心になってそれなりのプロジェクトができるはずです。
 川合氏は菅首相との確固たる関係を持っています。それは彼のブラジルの実績ばかりではなく、詳しいことは書けないが日本側の川合氏を応援する人脈がこれ以上ないほど整っているからです。
 川合氏は元気とは言え85歳です。しかし高齢だからできることがあります。県連で4年間副会長を務めましたが、日本との交渉役を与えられず過ごしてしまいました。県人会を退いた立場でも、県連は何らかの肩書きをつけて日本との交渉役に推薦すべきです。
 そしてブラジル日系社会を代表する新しい組織の骨格を早く作り上げて、日本国が納得できるプロジェクトを作成してブラジル日系社会を確固たるものにする最後のチャンスの到来と思います。
 菅首相は当選後のテレビ出演で[改革]を強調されております。改革の意欲と実行する人を登用する。これから日本が良い方向に急激に変革して行くと感じました。それに呼応して、ブラジル日系社会の改革は待ったなしです。

最後のチャンス

 ブラジルは誰が大統領になろうと、コロナ禍が来ても大豆穀類の増産が進み、それに関連する産業が拡充して国際的に重要な国となっています。その基礎を作ったのが1975年田中角栄が来伯しての英断でした。
 その前にコチア産業組合が数年間、ミナス州セラードで試作に成功していたからで、セラード開発の躍進は日本政府とブラジル日系人が基礎を作りました。
 又2005年に完成したサンパウロ市内のリオ・チエテ改修工事は日本国の援助です。両岸に植えたブラジル原産の樹木が繁り、大成功の例が身近にあります。この日本国のブラジル貢献をブラジル人に話すと改めて日本国と日系人に敬意を表します。
 それらの功績を無駄にしないように、また日系ブラジル人が日本で活躍している事も含めて、日伯交流会館と日本国の歴史館を日伯センターに併設すれば、南米の日本国の拠点ができ、合意してもらえると思います。何もしないのであれば時が過ぎるだけです。
 ブラジル日系団体のリーダーの皆さんには前述のブラジルへの貢献を誇りに、堂々とブラジル政府と交渉して頂きたい。
そして日本との交渉は日本人である一世にそれなりの役職を与えてください。最後のチャンスです。川合昭の出番を早急にご検討のほどお願い致します。